芭蕉 多賀城・松島編(1) |
![]() |
|
多賀城 芭蕉句 「あやめ草 足に結ばん草鞋の緒」 (多賀城跡南門―日本三古碑側) |
|
つぼの石ぶみは、高さ六尺余、横三尺ばかりか。苔を穿ちて文字幽かなり。四維界の数里をしるす。「この城、神亀元年按察使鎮守府将軍大野朝臣東人之の所里也。天平宝字六年、参議東海東山節度使同将軍恵美朝臣ママ修造而。十二月朔日」とあり、聖武皇帝の御時に当たれり。 昔よりよみ置ける歌枕多く語り伝ふといへども、山崩れて、川流れて、道改まり、石は埋もれて土に隠れ、木は老いて若木に代れば、時移り、代を変じて、その跡たしかならぬことのみを、ここに至りて疑いなき千歳の記念、今眼前に古人の心を閲す。行脚の一徳、存命の喜び、キ旅の労を忘れて、涙も落つるばかりなり。 ―おくの細道原文より― 多賀城跡の南門跡を散策する。 日本三古碑のほぼ隣に芭蕉句が、この石碑に刻まれています。 当日、好天に恵まれて、ラッキーな事に、ボランティアの方のガイド付である。「壷の碑」の詳細は、国府多賀城編で案内します。 芭蕉と曾良が多賀城に入ったのは五月八日と伝えられています。そして。「壷の碑」に吸い込まれるように近づき、「遠の朝廷」と呼ばれた多賀城栄華の日々が世に多く語り継がれているとはいえ、山は崩れ、川は流れが変わり、道も改まり、石は埋まって土中に隠れ、木は老い朽ち若木に植え替えられたり、時の移り変わりによってはっきりしないものばかりであるのに、この碑に至っては、まさしく千古のたかみというべく、古人の心境を改めて偲びます。 芭蕉自身、旅の辛苦も忘れて生き長らえたればこその喜びと「古人の心」を感得した歴史的感動に涙します。 中世の歌人達のみちのくロマンは、未知の辺境、古代的なるもの、異国的なるものへのあこがれが強くあったと思われます。そして、現代のみちのくロマン愛好者も「温故知新」なのです。 |
|
![]() |
![]() |