中尊寺(2)―本坊


中尊寺本堂 讃衡蔵
凡そ3千点の国宝、重文が集められ展示されている

中尊寺とは、本坊を中心とする一山十八寺院の総称をいいます。

その本坊を中心に、金色院竹下坊、法泉院小前沢坊、大長寿院谷坊、大徳印別所坊、地蔵院東谷坊、瑠璃光院永根坊、積善院観泉坊、願成就院中之坊、薬樹王院北本坊、真珠院大林坊、金剛院池端坊、観音院観智坊、円教院吉祥坊、円乗院桜坊、常任院南谷坊、利生院歓喜坊、釈尊院上西谷坊の計十八寺院で構成されています。

このうち、大長寿院、瑠璃光院、願成就院、薬樹王院、金剛院、常住院、釈尊院の七寺院は、藤原三代以来八百年以上連綿と続いた「古院」で、他十一寺院は、建武四年(延元二年、1337年)の火災のあと暫らく途絶え、戦国末期から江戸時代初めにかけて再興された「新院」であるといいます。

一山の中枢ともいうべき本坊は、表参道「月見坂」を登りきったあたりにあります。
お土産品店、食堂が4,5軒立ち並んだ道路の反対側の石段上の武家屋敷風の門が本坊表門です。中尊寺と書いた大きな額がかけられ、観光客が好んで記念写真を撮る場所でもあります。

※関連リンク  平泉町  平泉町商工会



寺伝によると、この門は最初、一関藩主伊達兵部宗勝の屋敷にあった。

ところが宗勝は、寛文十一年(1671年)、伊達騒動によって失脚した。門はその屋敷跡から移築されたとの事。徳川初期の建築様式を伝え、昭和四十四年、県文化財に指定されています。

門をくぐると広い境内に入り、その奥に宏荘な構えの本堂があります。本堂は明治四十二年八月に建立された。江戸時代中期に建てられた旧本堂が老朽化したため、全面改築の形で再建された。

中央内陣に本尊の阿弥陀如来が安置され、その左右に「不滅の法灯」がともされている。

昭和三十三年四月、中尊寺が本山の比叡山延暦寺に次ぐ別格大寺東北大本山に昇格した際に、比叡山から移された灯明で、以来、仏の教えさながらに、日々絶えることなくともされ続けています。

そして、内、外陣の欄間には、天女や孔雀の姿が見事に透かし彫りされています。これは、高村光雲の弟子たちが彫ったものであるという。
正月の修正会(しゅうしょうえ)、藤原三代の追善法要など、一山の重要行事は全てこの本堂で行われる。

本堂再建の際の今に語り継がれるエピソードがあります。

再建に携わった大工、小工は棟梁の岩井繁太郎以下三十人。大工たちは、一生一代の大仕事に材料を吟味し、ことのほか腕をふるった。このため寺側の予算をはるかにオーバー。大工たちに賃金が払えない心配が生じた。責任を感じた棟梁の岩井繁太郎は、落成式を間近に控えたある日、白装束に身を固め、上段の間で割腹自殺しようと身構えた。

一山の僧侶たちは大慌てでこれを制止。各寺院持てるだけの金を出し合って、無事、本堂を完成させた。
大工達の仕事にかける執念、本堂再建の為、一山がいかに大きな犠牲を払ったかが伺われます。

本堂裏側が宿院「束稲荘」―観光客用の宿泊施設である。

そして昭和五十年十二月、表門のすぐ左脇に新鐘楼が完成し、時を刻んでいます。



(史料:日本の歴史・岩手県の歴史散歩・吾妻鏡・平泉雑記・平泉今昔)







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