中尊寺(1)―由来


展望台より
急勾配の月見坂を登りきると、広い絶景が広がる
弁慶堂

私は、今、中尊寺参道入口におります。

表参道の「月見坂」を登ると、樹齢300年の老杉が深々と茂っています。一気に上ると総門跡に着きます。東物見台に広い展望が開かれています。前九年の役の古戦場、高速道路や国道4号線、衣川と東北本線の列車など、180度絵になる絶景です。そしてこの物見台の道路を挟んで弁慶堂があります。中には等身大の弁慶立往生の像が置かれています。

更に参堂を行くと、右に迂回する道があり、そこに西行の句碑が建てられています。
「聞きもせず 束稲山の桜ばな 吉野の外にかかるべしとは」

(聞いたことすらない東稲山の桜花よ名に知れた奈良吉野の千本桜の外にこれぽどの桜の名勝があったとは)

そしてさらに右に地蔵堂、左に瑠璃光院薬師堂、右側に積善院がある。この積善院はいつも芭蕉展をやっており、参堂を登った一休みには、とてもいい場所と思った。庭の綺麗で、ここからの北上川の眺めもとても良く、抹茶などを飲みながら、みちのくロマンに思いを巡らせます。

続く参道を右に中尊寺本坊があります。儀式、諸行事はこの本坊で行われ、初詣での祈願には、身動きができない位の人の波です。

そして、讃衡蔵(宝物館)、金色堂が覆堂に覆われて金色の輝きを放っています。

中尊寺、正式には天台宗東北大本山関山中尊寺といいます。

※関連リンク   平泉町  平泉町商工会



中尊寺の由来についてはどうでしょうか?
説が分かれます。

「吾妻鏡」によると、「清衡六郡を管領するの最初これを草創する」とあり、最初から清衡創建の寺である事を伝えています。前九年・後三年の役(1051年―87年)の後、この二つの死者を弔い、奥羽の安泰を願って建立された寺であるとしています。寺塔四十余宇、禅坊参百余宇の大伽藍は大治元年(1126年)に完成します。

また、一説によると、仁明天皇の嘉祥三年(850年)、東北教化の途次平泉を訪れた慈覚大師円仁が、山の山頂に一宇の堂を建立。弘台寿院と号した。その後、清和天皇の貞観元年(1859年)、勅によって「中尊寺」の寺号を賜った。これが中尊寺の始まりとされています。

前九年の役の際には、源頼義、義家父子が中尊寺・月見坂で戦勝祈願、その後堀川天皇の長治二年(1105年)、清衡に中尊寺経営の勅があり、清衡は約二十年の歳月をかけ建立。以来、堀川、鳥羽二代にわたって、国家の安泰を祈る勅願寺として、人々の尊崇を集めるに至ったという。

慈覚大師開基説が言われるようになったのは、寛文五年(1665年)十二月、徳川幕府の寺社統制令によって、上野寛永寺の直轄末寺とされたが、この時、天台宗の寺院であることを証明するため、慈覚大師開基云々の由来書を提出した、以来、これが寺伝として定着し、一般に流布されたもののようである。

中尊寺は、建武四年(1337年)に火災にあい、創建当時の建物は、現在金色堂と経蔵のみとなっています。六年後に再建された鐘楼梵鐘銘にも、「仰ぎ考へるに、平泉中尊寺創建の歳序は、長治二季春、藤原清衡忝けなくも堀川鳥羽の勅詔を賜はるところの霊場なり」と、はっきりと清衡の創建だったことが記されています。

また、中尊寺が焼失する四年前の建武元年(1334年)八月、中尊寺一山衆徒が陸奥国府に提出した「大衆訴状」にも、「堀川天皇の御宇、長治二年二月十五日、出羽陸奥両国大王藤原朝臣清衡最初院を造立す」とあり、これも清衡創建であることを伝えています。

中世の文献史料はいずれも清衡創建を伝え、中世においては清衡創建説が一般的でした。

「吾妻鏡」によると、清衡は、白河関(福島県)から外ケ浜(青森県)に至る二十日余りの行程に、一町ごとに金色の阿弥陀堂を描いた笠卒都婆を立て、その中央に一基の塔を建て、寺院とした。それがこの中尊寺であったといいます。

江戸時代中期の平泉研究家相原友直(1703―1782年)は、「平泉雑記」の中で「中尊寺」の寺名は「白河関から外ケ浜に至る陸奥国中央の意味であり、「関山」の号は、山下に衣関がったことに由来する」といいます。

当時、衣関がどこにあったかは不明ですが、中尊寺丘陵一帯は古くから「衣関」と呼ばれ、現在でもそのまま地名となって残っています。



(史料:日本の歴史・岩手県の歴史散歩・吾妻鏡・平泉雑記)







無断転載禁止




アクセス解析 SEO/SEO対策