初代清衡 「平泉へ進出」



清衡は、前九年・後三年の役の戦乱から、奥州の在地豪族として、たった一人生き残った。

事実は小説よりも奇なりです。清衡の前半生はどんな物語の主人公にもまして、劇的です。

清衡は藤原氏の流れを汲む藤原の経清の子として生まれた。と同時に、母は「六郡之司」頼時の娘であり、安倍氏の血も引いています。

その安倍氏は前九年の役で滅亡、安倍氏に加担した父経清は、鈍刀をもって打ち首にされた。
本来なら清衡も父とともに処刑されるはずであるが、母の安倍氏女が勝者の清原氏に再嫁したため、危うい命が助かった。

そして皮肉にも父の仇の手で養われることになったのです。

ところが、その清原氏も後三年の役で滅亡、清衡だけが生き残り、晴れて「藤原清衡」と名乗れる時世に際会したのです。

後三年の役の立役者である源義家は、陸奥守を解任され奥州を去り、安倍氏から清原氏へと受け継がれた奥六郡は、ごく自然に清衡の手中に帰した。

そして、清衡は、奥六郡の新しい支配者となったばかりか、出羽国を含む一万余(吾妻鏡)を継承することになったのです。

その支配領域は、南は白河関(福島県白河市、表郷村)から、北は津軽郡外が浜(青森市青森湾岸)まであったといいます。

乱後の数年間は、江刺郡豊田舘(岩手江刺市)にあって在地権力を武力などで再編する一方で、寛治五年(1091年)の春に京に入り、久方ぶりに心から喜ぶ義家と対面します。
また、見聞を広めると同時に、父方の縁者検非違使左衛門尉藤原季清(けびいしさえもんのじょうふじわらのすえきよ)を探し訪ねたといいます。この季清の孫が後の西行法師です。

その年の秋、中央の貴族の庇護を受けるため関白藤原師実(かんぱくふじわらもろざね)に申分のない駿馬二頭、荘園の寄進状などを貢しています。清衡はその後も京の藤原氏や有力寺院に貢馬貢金を続け、中央との結びつきを強めています。

今や奥羽両国にまたがる一大勢力となった。やがて、江刺郡豊田舘から平泉に進出し宿舘を構えます。

平泉は、白河関(福島県)から外が浜(青森県)に至る陸奥国のほぼ中間地点。北上川との合流点にあり、古くから、交通、軍略上の要衝とされてきた。

しかも、冬季間雪が少なく、風光明媚である。「都」を定めるのにふさわしい土地だった。ここに初代平泉藤原氏が誕生したのです。

「吾妻鏡」によると、「清衡は継父武貞率去後、六郡を伝領する。去る康保年中、江刺郡豊田郡から岩井郡平泉に移り、宿舘となす」とあり、清衡は康保年間(964年―967年)に江刺から平泉に本拠を移したことになっています。

しかし、清衡の没年代から逆算すると、清衡は康保年間にはまだ生まれておらず「吾妻鏡」のこの記述は実年代に合わない。

そこで、今日では、康保は「嘉保」(1094―1095年)か「康和」(1099―1103年)の誤記ではないかとする見方が一般的になっています。

いずれにしても、清衡は、長治二年(1105年)、丁度五十歳の時、中尊寺の造営に着手しており、この時までには、平泉に本拠を移し終えていたことは間違いない。(平泉今昔)

このようにして、清衡の巧みな外交政策と平行して、平泉進出が進められたのです。

そして、清衡が平泉で営んだ舘は、伝承で「柳之御所」と言われています。

当時の宿舘とは、公的場である舘(正殿)と私的な空間である宿所が分離して造営され、さらにその外に宿がおかれ、人々の集住がはかられる形態をいいます。
この図式は整備され三代秀衡の平泉舘(政庁)と加羅御所(常居所)の分離という形に踏襲され、その先駆が清衡であったといいます。

この伝承「柳之御所跡」の緊急発掘調査が、近年の北上川治水事業の一環とするプロジェクト計画によって行われていますが、その清衡の宿舘ではないかとされた「柳の御所」は、その遺跡、遺稿、遺物の発見により、「平泉政庁跡」と断定されています。

つまり、清衡の宿舘は未だ不明なのです。




(史料:日本の歴史・岩手県の歴史散歩・平泉研究・平泉今昔)






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