初代清衡 「平和国家の建設へ」


前九年・後三年の役の戦乱をくぐり抜けて、奥州両国の事実上の支配者となった清衡は、江刺郡豊田舘から平泉に進出します。

当時の律令体制は、多賀城に陸奥国府を置き、胆沢城には軍政府としての陸奥鎮守府が置かれていました。清衡の勢力拡大は、この体制の中で行われます。

清衡の他の新政策は、平泉における寺院造営です。
当時「浄土思想」が流行し京の有力貴族たちは、来世での極楽往生を願い、盛んに寺院を建立していた時期でもあります。

寺院は、藤原氏の氏寺であり、菩提寺だが、もう一つ院の御願寺、鎮護国家の寺という性格をまとって建設された。これによって平泉と京都との連携が深まり、更に、僧や仏師の、或いは仏器やその他の調度品制作に携わる工人の集住が確保され、祭儀用奢侈品の交易を促進されるという側面があった。

清衡建立の寺が有名な関山中尊寺です。

長治二年(1105年)ちょうど五十歳の時といわれていますが、中尊寺造営に着手します。そして二十年の歳月をかけて「寺塔四十余宇、禅坊三百余宇」と謳われた中尊寺大伽藍(だいがらん)を建立します。そして、鎮護国家大伽藍の最後に完成したのが、三間四面の荘厳をきわめた金色堂であった。完成は天治二年(1124年)としています。

中尊寺建立の趣旨は、天治三年(1126年)「中尊寺建立供養願文」によって伺い知る事ができます。この願文は、二巻現存し、すでに原本は失われ、いずれも写本であるが、国の重要文化財に指定されています。

この中で、清衡は、三間四面の檜皮葺堂一宇、三重の塔婆三基、二階瓦葺経蔵一宇、二階鐘楼一宇、大門三宇・・・など建立した堂塔名を列挙。その各々について建立の趣旨説明を付し、最後に、以上を建立したのは「偏に鎮護国家の為」であることを繰り返し強調している。

そして度重なるみちのくの戦乱でなくなった多くの霊を弔い、敵味方はもちろんのこと、鳥獣から小さな虫までも浄土に導こうとする、清衡の心情が十二分に吐露されています。

「吾妻鏡」によると、清衡は、陸奥・出羽両国の一万余に伽藍を建立。

さらに、白河関(福島県)から外ケ浜(青森県)に至る二十日余りの行程には、一町ごとに金色阿弥陀像を図絵した笠卒都婆をたて、その中心を計って山頂に一基の塔を建立、寺院としたそれが中尊寺であったといいます。

つまり、中尊寺はまさに、ここ奥州の山野に幾度となく流されたおびただしい血。その戦死者供養のための鎮魂の寺であったのです。そして、仏国土の中心、シンボルとして建立されたのでした

二代基衡そして三代秀衡によって平泉舘(伝承「柳之御所」遺跡)が北上川の川岸段丘上に造営されてから、都市として平泉は大きく変貌していきます。その中心的地域は、毛越寺周辺から太田川にかけての範囲ではなかったか、と推測されています。

金色堂後の大治三年(1128年)七月、清衡は波乱に富んだ生涯を閉じます。

享年七十三歳であった(中右記)自ら心血を注いで建立した金色堂に安置された。

当時の背景から「極楽浄土」への希求は強かったであろうことが伺われます。



(史料:日本の歴史・岩手県の歴史散歩・吾妻鏡・平泉文化研究会)






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