二代基衡 「統治策を踏襲し発展の礎を築く」


現在、高野山に所蔵されている「六品経巻第二十二中尊寺金銀字経」奥書によると、「北方平氏六男三女所生」とあり、清衡には妻室北の方平氏との間に六人の兄弟と三人の姉妹が存在した。

しかし、基衡は嫡男ではなかったらしく、清衡死後まもまく、兄弟間に深刻な相続権争いが生じたのです。

権中納言源師時(みなもともろとき)の日記「長秋記」には、大治四年(1129年)八月二十一日の条で、清衡の二子、基衡と惟常(これつね)との間に合戦があったこと。

さらに、大治五年六月八日の条で、清衡の長男字小舘というのが弟の字御曹子に攻められ、越後まで逃げたが捕えられ、父子とも殺されたことを伝えています。

これを綜合すると、基衡は御曹子と呼ばれたが長男ではなく、惟常(これつね)字名は小舘(こだち)で、こちらが嫡男であったようです。

ついに合戦となり、惟常は破れ、日本海まで逃げるが、基衡の手勢はこれを追って討ちとり、基衡は陸奥・出羽における初代からの諸権限を継承し、相続権を獲得したといいます。

基衡は、先の支配権とともに、陸奥出羽押領使としての軍事警察権、摂関家領荘園の管理権等を継承、獲得し、さらに整備拡大していった。「一国を押領し、国司の威、なきがごとし」(古事談)

基衡に関する史料は少なく、生没年も不明だが、「古事談」(こじだん)とか「十訓抄」(じっきんしょう)に記された基衡は、国府役人の荘園立ち入り検査を拒否してこれと争い、摂関家の京藤原氏と荘園の税額をめぐって対立したり、戦闘的人物として描かれています。

基衡が荘園管理者として、在地支配を通じて地位を強化していったときのエピソードがあります。

院の近臣で陸奥守となった藤原師綱(もろつな)は宣旨に基づき、一国検注を行うため、信夫郡に入った。検注は先例のないことなので都の庄司季春(としはる)は基衡の命令でこれを武力で阻止し、国司方に多大な損害を与えたという。

しかし、院との対立が深まることを恐れた基衡はこれ以上国司に逆らうわけにもいかず、季春に相談します。

季春は「このようになるのは承知していた。だがあなたの命令である。国司に背いたのは自分であり、、基衡与り知らぬことにして自分を国司に差し出せばよい」と答えたので、基衡は泣きながら了承したという。まさに強化された主従制がある。

また、摂関家の藤原頼長と、管理する陸奥・出羽の荘園の年貢の増収問題でも激しく争ったといいます。

その荘園問題について、荒木伸介氏は次のように説いています。

  清衡が寄進した荘園は「保元の乱」の張本人で、悪左府(あくさふ)と呼ばれた藤原頼長が相続していた。頼長は早速年貢の増加を求め、何度も人を派遣して交渉させたが、基衡は応じなかったのです。ようやく決着がついたのは仁平三年(1153年)のことで、それも基衡の提案に近いものであった。

 その経緯は、頼長が日記「台記」に自ら記しています。この交渉には陸奥守藤原基成の応援があったことも間違いない。 康治二年(1143年)陸奥守兼鎮守府将軍として藤原基成が赴任してきます。よほど基衡との仲がうまくいったのであろうか、その任期を終えても帰京せず、平泉に定住したのである。そして女を基衡の嫡男秀衡に嫁がせたのです。

 また、基成と頼長は縁戚関係にあったのである。年貢問題が基衡に有利な条件で解決したのも当然だったといえよう。



清衡没年後丁度十年目にあたる保延四年(1138年)五月、父清衡の成仏得道を祈願するため、千部一日経を書写しています。

その頃には、基衡の力も確立されていたであろうと思われます。更に十年後の久安四年(1148年)にも千部一日経を書写しています。
このことから、基衡も信心、考心ともに篤い人物だった事、そして、清衡の遺志(仏教信仰)を継承した事が伺われます。

この基衡によって、奥羽両国における藤原氏の勢力は、さらに発展拡大され、父清衡から単に物質的な権力を継承したにとどまらず、みちのく辺境地を仏国土たらしめんとする、その理想をも正しく受け継ついでいきます。

その所産が、中尊寺をはるかに上回る規模での毛越寺造営であったのです。そして基衡の妻は観自在王院を建立し女壇として造営に参画します。

毛越寺は過去二回にわたる火災で堂塔伽藍をことごとく失い、現在は浄土庭園の遺構を遺すだけであるが「吾妻鏡」はその全盛当時様子を「堂塔四十余宇」禅坊五百余宇」「霊場の荘厳は吾が朝無双」といい、規模において、また質において、中尊寺をはるかに上回っていたことを伺わせます。

しかし、基衡は、毛越寺の全き完成を見ずにこの世を去ります。

父とともに金色堂に安置されたのです。史料が乏しく没年代もはっきりしないが、昭和二十五年の遺体調査では、基衡は三代の中で最も若く、年齢は五十歳代。死因は脳腫瘍か脳溢血と推定された。体形は、いかにも剣術、弓術などの鍛錬を十分に積んだ武人の風格を思わせたとしています。

「吾妻鏡」は基衡を評して「果福父に軼ぎ、両国を管領す」と言い、人物、権勢ともに清衡以上だったことを伝えています。




(史料:日本の歴史・岩手県の歴史散歩・古事談・吾妻鏡・長秋記)






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