三代秀衡 「鎮守府将軍」


二代基衡は、清衡の理想である仏教信仰の理想をさらに発展拡大させます。

しかし、基衡は、毛越寺の全き完成を見ないうちに世を去ります。その基衡を継いだのが三代秀衡です。父の基衡が没した時は四十代に近かったといわれます。

秀衡にも太郎俊衡、五郎季衡(すえひら)など何人かの兄弟がいたが、彼らは比爪舘(岩手紫波郡)を本拠地としており、骨肉の争いの多い一族の中では、家督相続がスムーズに行われた。嫡宗体制の確立を見ることが出来ます。

そして、その継承した権限には、清衡や基衡から継承した「六箇郡の司」や在地支配権である「山北三郡の俘囚主」、陸奥出羽「押領主」「荘園管理権」など、基衡が対京都との関係の中で形成、獲得してきたものがあるが、しかしそれにとどまらなかった。

秀衡は、嘉応二年(1170年)、鎮守府将軍に任命され、従五位に叙せられたのです。つまり正式に朝廷の官職に就いたのです。

次いで、養和元年(1181年)、陸奥守となります(出羽も実質的に含まれていたと思われる)。
在地豪族が鎮守府将軍となることは、前九年の合戦後の清原武則の先例があるが、陸奥守に任命されるということは、極めて異例の任官でした。(秀平六十歳頃と推定される)。

藤原氏は、名実とともに陸奥国の支配者としての地位を公認されたのです。

このころ政界実権は平氏一門が掌握し、源氏との対立が深刻化していた。秀衡が鎮守府将軍に任ぜられた時、右大臣藤原兼実は「奥州の夷狄秀平、鎮守府将軍に任ず。乱世の基なり」と「玉葉」日記に記しています。そして、源の頼朝が伊豆で平氏追討の挙兵を行った翌年に、秀衡が陸奥守に任ぜられます。兼実は「天下の恥、大略、大将軍(平宗盛をいう)等の計略か」と玉葉日記に記しています。

つまり、伊豆には源頼朝、信濃には木曽義仲があり、まさに源平合戦の前夜、という形勢にあったさなか、平氏一門とすれば、源氏の勢力を背後から脅かす形の秀衡を、どうしても味方につけたかったのです。そういった政治的配慮から、秀衡を陸奥守に任命したと一説にあります。

秀衡の勢力は、今や単に奥羽両国の支配にとどまらず、その動向が日本全体の政治分野を左右するほど莫大な経済力、軍事力があったのです。

しかし、秀衡は、結局、源平いずれにもくみすることなく、奥州にあって武装中立を堅持した。そして、文治三年(1187年)十月、兄頼朝に都を追われ、失意のうちに奥州に下った義経と、泰衡、忠衡ら一門の行く末を案じながら、この世を去ったというのが通説になっています。

その秀衡の名が、初めて文献資料に登場するのは、永万元年(1165年)です。
この年、秀衡は、大高山神社(宮城県柴田郡金ヶ瀬村)と刈田峯神社(同県刈田郡宮村)の年貢を神祇官に代納した。

仁安二年(1167年)十月には、京で行われた競馬で、秀衡が寄進した馬二頭が勝利馬になったことが、京の公家日記に見えます。

さらに、承安三年(1173年)、高野山で五大多宝塔を建立した際、秀衡はその落慶法要の費用を全面的に負担。「将師累葉の家に生まれ、勢徳希世の人たり」と感謝された。

元歴元年(1184年)、奈良東大寺復興に際し、大仏滅金料として頼朝が金1000両を贈った時、秀衡は5000両を寄進したという。彼の多大な助力、そして財力をも典型的に示しています。

このことから、秀衡が院をはじめとする中央権門への貢納を怠らず、積極的に官位獲得の努力を行っていたとする野口氏(鹿児島経済大学)の説もうなずけます。

野口氏は、官位獲得のためには、当時において、叛乱の鎮圧など特別な事情のない限り、中央の有力者とのコネクションが必要であったと説きます。

 その中央政界との人脈とは、それは、前陸奥守兼鎮守府将軍基成である。
基成は康治二年(1143年)陸奥守・鎮守府将軍に任じ、久安四年(1148年)に陸奥守を重任。その後任平(にんぴょう)二年(1152年)に辞退したが、延任を命じられ、さらに一年陸奥守を努め、そのまま陸奥に土着して娘を秀衡の妻にし、自ら平泉の衣河舘に居住していた。 

 彼の異母弟には平治の乱の首謀者藤原の信頼がいて、奥州土着もその辺に理由があるのかも知れない・・・・

 秀衡の時代、平泉舘は実質的な鎮守府政庁の役割を果たし、京都との経済・文化的な関係を強めつつ、政治的には自立した地方軍事政権として体裁を整えていった。と説きます。



頼朝が「御舘は奥六郡の主、予は東海道の惣官なり」(吾妻鏡)と呼んだように、秀衡も遷舘し、造寺を行います。

秀衡は、基衡が手掛けた毛越寺を完成させ、さらに高館の南に無量光院、そして、伝承柳之御所といわれる「平泉舘」、「伽羅御所」も造営します。

位置関係で見ますと、北上川沿いに政庁・私邸・御堂のセットがあることを述べています(吾妻鏡)。

柳之御所発掘調査(1990頃)前迄は、「柳之御所」は初代清衡、二代基衡の居舘、加羅御所は三代秀衡、四代泰衡の居舘と伝えらてきましたが、この発掘調査によって出土資料のほとんどが12世紀(1150〜75年)と推定されており、この遺跡は秀衡の時代の遺跡であり、「平泉舘」であると判断されました。

秀衡建立の「無量光院」は関白藤原頼道が宇治に建てた平等院を模したもので、発掘調査では、さらに一回り大きかったことがわかっています。


二代基衡が、しばしば、国司や摂関家と対立。戦闘的だったのと対照的に、秀衡は、温和、大人の風格で歴史に登場しています。これは、両者の性格的な違いにもよるが、基衡の代には、藤原氏の勢力がまだ生成発展期にあり、周囲との摩擦が生じやすい状況にあったと思われます。

それが秀衡の代にはすっかり安定してきます。奥羽両国における藤原氏の勢力が揺ぎないものとして確立されていたことを示しています。
秀衡は、清衡が始め、基衡が発展させた平泉文化の、いわば完成者でした。

秀衡の死亡年齢は不明ですが、昭和二十五年の遺体調査では七十歳前後と推定されています。

吾妻鏡は、秀衡を評して「将軍の宣旨を豪りてより以降、官禄父祖に超え、栄躍子弟に及ぶ」と言い、遺体調査に加わった作家の大仏次郎氏は「北方の王者」と呼び名したとのこと。

「吾妻鏡」は基衡を評して「果福父に軼ぎ、両国を管領す」と言い、人物、権勢ともに清衡以上だったことを伝えています。




(史料:日本の歴史・岩手県の歴史散歩・吾妻鏡・野口実(鹿児島大学教授)氏説一部抜粋)






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