藤原三代の遺体調査―今は黙して語らない |
昭和二十五年三月二十二日、金色堂須弥壇に安置されたまま800年の眠りについた藤原氏三代の遺体調査が、時ならぬ春雪の降りしきる中、この日始まろうとしていた。 当時の様子を、いくつかの史料・新聞等によってご紹介してみましょう。 調査団は、歴史、考古、人類学者等約30人、そして、一山の僧侶、報道関係者等数人が見守る中、遺体の入った金棺は、藤原清衡、基衡、秀衡、泉三郎の首級の順で、金色堂から中尊寺本堂に運び込まれた。 この日、本堂内で遷座法要と学術施行式が行われた。そして、調査は約一週間に渡って行われた。 調査に加わった作家の大仏次郎氏は、当日の印象、そして、棺が開けられた瞬間の印象を次のように書いた。 「今日は、雪が降っていますが、かえって、雪がひとしおの風情を添えてくれました。白い雪が、金色堂の内部の朱に映えて本当に美しくみられました。ここにくるまで奈良地方を回ってきましたが、藤原三代の栄華をしのぶ中尊寺の印象は強く残るものがあります。」 「私は、義経の保護者だった人の顔を見守っていた。想像を駆使して、在りし日の姿を見ようと努めていたのである。高い鼻筋は幸いに残っている。額も広く秀でていて、秀衡法師と頼朝が書状に記した入道頭を、はっきりと見せている。下ぶくれのおおきなマスクである。北方の王者にふさわしい権威のある顔立ちと称してはばからない。牛若丸から元服したばかりの義経に、ほほえみもし、やさしく話しかけもした人の顔が、これであった。」 調査の主要な関心事は、次ぎの二つであった。 一 藤原氏三代の遺体は、いずれもミイラ化しているが、それは人為的なものか、自然発生的なものか。 二 人類学的に、日本人か、アイヌ人か。 先ず、第一のミイラの問題は、何れも人工的手法を加えた形跡が見当たらず自然乾燥によってミイラ化したという見方が大勢を占めた。 第二の人類学的問題については、藤原氏三遺体は、身長、体形、血液型など身体的特徴のあらゆる点で、アイヌ人よりも日本人に近いことがはっきりした。 奈良時代から平安時代にかけて、奥羽に住む人々を京都の律令国家から、「蝦夷」(エミシ)「俘囚」(フシュウ)と呼ばれ、その支配に反発する種族を「蝦夷」といい、支配の傘下になった種族を「俘囚」として区別し、さげすまされてきた。 これらの蝦夷、俘囚と称していた人々は、古代史上、日本人なのかアイヌ人なのか大きな謎とされてきたところである。 実際に頭蓋の調査にあたった鈴木尚氏は、藤原四代の頭蓋を北海道アイヌおよび現代日本人と比較検討した結果、前者にはアイヌ人的特徴は認められないとし、「頭蓋の計測及び観察の結果を組み合わせて、総合的に考えて見ると、藤原一族は日本人的な特徴が甚だ多い。特に基衡、秀衡及び忠衡(実際には泰衡であった)で顕著である。この点から考えると藤原一族はアイヌと考えるよりも、日本人と考える方が穏当である」と結論している。 当時調査が行われた昭和二十五年当時は、中世人や近世人の形質的特徴がまだ明らかにされていなかった為、形質上の興味である藤原四代の頭蓋の比較は、もっぱら、日本人かアイヌ人かの間で行われたという背景があったのである。 現代において、土井ケ浜遺跡人類学ミュージアム館長の松下氏によると、総論としては日本列島に居住していた人々の形質の変化をたどることは可能であることを述べている。 しかしながら、東日本の場合は、出土例が少なく推測も困難な状況であるが、近世アイヌ人には縄文的特徴が認められることから、形質人類学ではアイヌも縄文人の系統を引く人々だと推測しているが、奥州藤原氏は一体何者であろうか? そして、当時の分析データを基に、松下氏は次のように推測した。 「この四代頭蓋の特徴だけから大胆に彼らの系統を推測すれば、一代目の清衡にかかわる一族は「渡来系弥生人」的特徴を備えた集団で、他地域から移動してきたことが考えられる。 その後急速に清衡を頂点とする特殊な階層的集団が形成され、二代目、三代目には、遺伝子の隔離など遺伝的な要因が大きく影響し、超現代的な容貌が表出したものと思われる。・・・縄文文化が爛熟した東日本では西日本以上に縄文的要素が多く残っていても不思議ではない気配がするが、実際は逆である。 弥生時代以降この地域で一体何が起こったのであろうか・・・・」 以上のことから、人類学見地から謎とされてきた奥州藤原氏は、まぎれもない日本人だったことが明らかにされた。更に「渡来系弥生人」である事も推測されるに至ったのである。 調査ではまた、おびただしい副葬品が発見された。刀装具、鹿角製品、水晶、琥珀念珠(こはくねんじゅ)、金塊・・・・等など。その中に、豆粒ほどに小さな金の鈴があった。それを棺の中から拾い上げた時の感動を、調査に立ち会った中尊寺元執事長佐々木実高師(故人)は、次のように書いた。 「黄金というには余りに可憐な金の小鈴、思わず呼吸をつめた私は、目を閉じ心意を一点に凝らして、静かに静かに振ってみた。小さく、貴く、得も言われぬ神秘の妙音。八百年後の最初の音を聴き得た身の果報。それはまさしく大いなるものの愛情による天来の福音であった。連日続くあの騒擾(そうじょう)に、恐らくすでに爆発寸前の感情にあったろう私は、文化を護る道は、ただ『愛情』の二字に尽きることを、この瞬間に強く悟り得たのであった」 実高氏の感動を与えた小さな金の鈴は、他の副葬品と共に、現在中尊寺宝物館「讃衡蔵」に収蔵されている。 かつての奥州の覇者である藤原一族は、ミイラと化しても今も光堂須弥壇のもとに眠りつづけている。 (史料:日本の歴史・岩手県の歴史散歩・朝日新聞・平泉町教育委員会・読売新聞・「学研」藤原四代・平泉今昔・中尊寺) |