平泉燃ゆ


秀衡には、国衡、泰衡、忠衡の子息がいた。

嫡子は国衡(吾妻鏡)であったが、次男泰衡が跡を継いだ。父秀衡亡き後、その居舘である加羅御所に住むことになったといわれます
泰衡は、陸奥出羽押領使として「六郡を管領した」(吾妻鏡)。

四代当主となった泰衡は、暫らくは秀衡の遺言を守るべく義経の下に結束する形をとっていました。しかし、文治四年、朝廷から義経追討の宣旨が下され、さらに鎌倉頼朝から弾圧の使者が訪れ屈服します。

ついに、義経を討ち首を酒につけて鎌倉へ送り、義経派である三男忠衡も討ち果たし、義経の首を引き換えに平泉の地位保全をはかろうとします。しかし、結局平泉を救うことにはならなかったのです。
なぜなら、頼朝の意図するところは他にあったのです。

義経派を一掃した泰衡に、頼朝が兵を陸奥に向け進発したという報が入ります。
文治五年七月のことである。八月、泰衡は総勢十七万余騎、国衡を大将軍に、約二万騎の軍を伊達郡阿津賀志山(福島県国見町)に差し向け、城壁を築き要害とします。

一方頼朝は総勢二十八万余騎を率いて対します。
しかし、八日〜十日に及んだ合戦で国衡郡は大敗します。国分寺鞭館(仙台市)を本陣としていた泰衡は、その報を聞くや多賀国府、平泉を捨てて北へ逃走します。

頼朝が平泉に入った時既に、平泉舘などに火が放たれ「家はまた烟と化し、数町の縁辺は寂寞として人無し」(吾妻鏡)の状態であった。

泰衡は肥内郡(秋田県大館市)のにえの柵で信頼していた河田次郎の裏切りで首をはねられます。しかしその恩賞にあずかろうとした河田も「科(とが)八虐に招く」として頼朝に斬刑に処されます。

「吾妻鏡」は平泉落日の光景を次のように伝えています。

「主は既に逐電し、家はまた烟と化す。数町の縁辺、寂寞として人無し。累跡の郭内は滅びて地あるのみ。ただ、颯々(さつさつ)たる秋風、幕に入るの響を送ると云えども、蕭々(しょうしょう)たる夜雨、窓を打つの声を聞かず。ただ、ウシトラの角にあたり、一宇の倉廩(そうりん)あり、余焔(よえん)の難をのがると云々」

泰衡三十五歳であったといいます。ここに初代清衡以来が築き上げた約百年の奥羽の地に栄華を誇った平泉藤原氏の世界が幕を閉じます。

泰衡の首は、頼朝の実検の後、中尊寺に下げ渡され、父祖達の眠る金色堂に安置された。



(史料:日本の歴史・岩手県の歴史散歩・吾妻鏡)






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