平泉と頼朝


頼朝は奥州征伐に先立って、京朝廷に再三、泰衡追討の宣旨を要求した。

しかし、朝廷側はこれをしぶった。そこで頼朝は、故実に通じた大庭景能に、勅許なくして軍を動かす事の是非を尋ねます。能景は即座に「軍中にあっては将軍の令は聞くも、天子の詔は聞かず」と答えた。

これによって頼朝は、出陣を決めます。頼朝の奥州征伐は、いわば、大義名分の立たない「私戦」として発動されたものだったのです。

その泰衡追討の宣旨が、文治五年(1189年)九月、紫波郡陣が岡の頼朝の陣中に届けられた。泰衡は既に討たれ、全くの事後承諾に過ぎなかったが、頼朝の奥州征伐はここに「公認」される結果となったのです。

このことは、律令体制が完全に崩壊し、今や新しい勢力である武士階級によって動かされる時代になったことを象徴的に示しています。

この後、前九年の役の古戦場「厨川柵」(盛岡市厨川)に向かいます。

かつての祖先頼義、義家父子の戦跡を偲び七日間逗留した。この間、頼朝は、平泉舘とともに焼失した田文・省帳に代わる陸奥、出羽両国の新しい土地台帳の作成を古老に命じるなど、早くも奥州の戦後処理に着手した。

そして、平泉の僧たちが、寺領の安堵を願い出たことに対しては、「先例に任せる」旨の書状を与え、これを毛越寺南大門に掲げさせたという。

そして再び平泉へ向かいます。

胆沢城鎮守府において「吉書始」の儀式が行われた。そして御家人らに対する論功行賞が行われ、旧平泉の所領は、全て、鎌倉御家人に分配された。

その結果、勲功抜群だった葛西三郎清重に「陸奥国御家人奉行」「平泉郡内検非遺使所管領」の役職(今日の警察にあたる役職で、同時に諸国の守護に匹敵する役職です)が与えられた。さらに平泉他数箇所が所領として与えられた。

以来、平泉は天正十八年(1590年)、葛西春信が豊臣秀吉に滅ばされるまで約四百年間、葛西氏の統治下に置かれることになった。

頼朝は平泉に約十日近く滞在期間に、無量光院、衣川柵などの古戦場を視察し鎌倉の帰途に着きます。

しかし、頼朝が鎌倉に帰着してわずか二ヶ月後に、泰衡の郎従大河次郎兼任が出羽国で挙兵します。

しかしこの乱も翌年二月には鎮圧され、文治六年三月(1190年)に陸奥国留守職が設置されて、頼朝の意向が直接に反映する仕組みが形作られた。

頼朝は多賀国府にこの留守職を置く事にし文筆に達者な管領肌の御家人の伊沢家景を任命します。家景は葛西清重と共に「奥州総奉行」として、陸奥国を統括することになった。

初代清衡以来三代約百年間にわたって、白河以北、半独立国家の趣さえあった平泉は、完全に鎌倉幕府の支配体制の中に組み入られることになった。平泉は栄華の絶頂にあって滅んだ。
そして主家を失った平泉文化は、その生成発展を停止させ、以後衰亡の一途を辿ります。

奥州征伐の経緯は、祐筆によって逐一記録され、後に「吾妻鏡」の中に収録された。今日、平泉に関する最も信頼し得る文献と評価されています。この吾妻鏡の目で、追跡してみました。

「五月雨の 降りのこしてや 光堂」 

今地上に残るその輝きは、かつての片鱗に過ぎないのです。



(史料:日本の歴史・岩手県の歴史散歩・吾妻鏡)






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