古都みちのく「平泉」



京を去ること一千KM。ここみちのくの地に、藤原氏を名乗る一族が栄華を極め、奈良・京都に比肩しうる「都」があった。「平泉」である。

11世紀〜12世紀末にかけて、清衡、基衡、秀衡三代の約100年にわたり奥羽両国を支配し、この地に富と権勢を集積させ中尊寺、毛越寺、無量光院を中心とする仏教文化を打ち立てた。現存の金色堂に象徴されるようなう黄金をふんだんに使った「皆金色」の文化であった。
しかし、この地に展開されたドラマも、頼朝の奥州征伐であえなく滅んでしまうのです。

  「夏草や 兵どもが 夢の跡」
俳人芭蕉は、藤原氏の栄華・滅亡をこの句に凝縮させ栄華盛衰はかなさを慨嘆した。

  「五月雨の 降りのこしてや 光堂」
そして、目前に現れる金色堂を見るや、失われた文化への哀惜の情を込め詠った。
平泉の歴史・文化は、芭蕉のこの二つの句に凝縮されているいっても過言ではない


現存する「中尊寺」「毛越寺」「高舘跡」は、古都平泉の断片的な姿を遺し、滅んでもなおみちのくへのロマンをかきたてているのです。

ここ平泉は人口一万人足らずの小さな町です。毎年250万人以上の観光客を迎え、近年は外国人観光の割合も高くなっているとのことです・・・

アクセスは、JR東日本「平泉駅」で下車し、降りた前方の道側である西方向には「毛越寺」、降りた右側道路の北西方向に、伝承「柳之御所」「無量光院跡」「高舘跡」、さらに進んで「中尊寺」を見ることができます。

※参考 平泉町観光課     平泉商工会  毛越寺   中尊寺

昭和二十五年の「金色堂須弥壇」に安置されたまま八〇〇年の眠りについていた藤原三代の遺体調査以来、今まで数回にわたり、周辺遺跡発掘、遺稿調査が行われ、「都市平泉」の謎の部分が、少しづつ解明されようとしています。

清衡、基衡の館であったとする地元の伝承が、一関遊水地・国道四号線バイパス建設に伴なって「柳之御所跡」緊急調査が、1988以来続けられ、今も進行中であります。

発掘された遺跡や遺物は、平泉の権力・文化の本質を象徴的に示しています。
最も目につくのが、中国製陶磁器と大量のカワラケです。そして内耳鉄鍋・漆器等も強烈な印象を与えます。

清衡は京都に似せた計画的な都市を建設し、そしてこの地は奥州の中心にあり、平泉政権の首都にふさわしい位置をしめていたというのが今日までの「通説」となってきました。

この発掘された遺物例えば「カワラケ」は、在地系のロクロ技法であり、陶磁器にも中央貴族と異なる好みが見られることなどが専門家によって指摘されています。

果たして、中央志向のプランで終わったのか?或いは独自性を開拓したのか?

「都市平泉」の全貌は、今後の調査発掘研究の結果によって、今以上の具体的な都市構造が明らかにされるであろう


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