伝承柳之御所跡(1) 政庁 平泉舘


柳之御所跡
伝承柳之御所の跡地に立っています。上の写真は、南方面からの望んだ風景です。

遺跡面積は約10万平方Mといわれます。中尊寺からは約1,5KM南東に位置し、北上川右岸に沿って、北西から南東方向に細長く延びる低位台地にあります。

規模は最大で長さ725M、幅212M、標高26―41Mの緩い谷が入り(猫間ガ淵)、対岸が秀衡建立の無量光院境内です。

北上川遊水池事業による堤防の建造とその上を走る国道4号線平泉バイパスの工事が進められるにあたり、この跡地の緊急発掘調査が昭和63年から実施され現在も進行中です。
この発掘調査は、遺跡面積約10万平方Mのうち、4万平方Mを対象に実施されました。

江戸時代中期よりこの柳之御所は、初代清衡、二代基衡の居舘跡、加羅御所は三代秀衡、四代泰衡の居舘と伝えられてきた。

しかし、この発掘調査によって12世紀の第三四半期(1150―1175)をピークとする豊富な文物と遺構の発見があり、それは三代秀衡を中心とする時代に合致し、政庁=平泉舘かと改めて注目されだした遺跡です。

それでは、今までに発見された遺物、遺構について、専門家の所見をお伝えすることにしましょう。

吾妻鏡では、

「舘の事、秀衡。金色堂の正方、無量光院の北に並べて宿舘を構え、平泉舘と号す。・・・・無量光院の東門に一郭を構え、加羅御所と号す。秀衡の常居所なり、泰衡相継ぎて居所となす。」

加羅御所は「常居所」とあるので、私邸である。これに対して、平泉舘は公邸或いは政庁と考えられ、これを「柳之御所」とする有力説となっていたが、最近、政庁「平泉舘」と判断された。

この広い台地は、堀によって二分されています。南半部は幅10Mを超える、深さ4、5M程の大規模な堀が巡る。その中央部には堀で囲まれた園池を伴なう大規模な建築跡があります。

柳之御所跡を特徴づける遺構に10基前後のトイレが発見された。大きさは直径1・2M前後、深さ1―2M程である。埋土からトイレットペーパー代わりに使用していたチュウ木が多く出土した。

その他に多種多量の遺物が出土されています。最も多いのが土器類で、次に木製品も種類が豊富である。他に瓦、金属製品、石製品、植物遺体などがある。

土器類にはかわらけ、中国陶磁器がある。かわらけは土師器系(はじきけい)の素焼き皿類です。手づくね手法の京都系とロクロ手法の在地系がある。

このかわらけは階層性を映す社会的な土器であり、儀式や宴会などでは1回限りの使い捨ての器となり、大量に使われる特徴があるといいます。この跡地からそれを裏付けるかのように総量約15トンも出土したといわれます。

中国陶磁器では、白磁が八割を占めて、青磁や青白磁は少ない。器種には、壷、腕、皿があり、傾向として中国陶磁が占める率が高く、白磁の四耳壷(しじこ)の出土率も高い。これらは、日常生活の中で使用されていて、平泉の高級品志向が伺われる。

この中国産陶磁器「青磁器」について、平泉文化研究の所見を見ますと、

★新生12世紀の陶磁器で埋め尽くされている。

★中国産白磁四耳壷に関しては、11世紀末から12世紀初頭のもので、新潟の三島郡越路の白山神社十楽寺経塚と福岡の博多、大宰府史跡から量は少ないが出土してる。しかし、柳之御所跡よりかなりの数量が出土している。

このことから、平泉が、地方としては他に例を見ない速さで人気の輸入陶磁を手に入れていたことを示唆していると述べている。


また、「黄釉褐彩四耳壷」について、細井計氏の所見では、
北九州でしか出土例がない。「白磁筋目文四耳壷」は、12世紀初頭の製品で、平泉以外の東国では出土例がない。国内全体でも類例の少ないものもあった。
これは、平泉における中国陶磁器の輸入が、必ずしも京都を媒介とせず、九州博多経由で、ストレートに行われていたことを暗示する。


国産陶磁器は、伊勢湾の知多、渥美半島で焼かれた常滑、渥美窯品がかわらけに次いで多い。土器総体の四割を占めている。器種には、この時代を象徴するカメ、壷、鉢の三点セットがあり、日常生活の貯蔵や調理機能を担っていた。

この国産の渥美焼、常滑焼に関して、平泉文化研究の所見では、

この窯跡が12世紀の段階で、宮城県石巻市の水沼窯より、当時両窯から、プラント導入を行って製品技術を学んで導入した形跡が見られたことを述べている。

更に、この出土陶片から、経済活動の側面をこのように述べています。

貴族社会から、民間ベースの文化創造活動を、言い換えると、新しい時代相の創造活動を、平泉が12世紀はじめにに手懸け、しかも岩手でありながら中国からの動向を視野に収め、当時の人気であった中国産陶磁器や日本陶磁器を即座に掌中にしているという時流を見定める判断力の正確さが偲ばれる。


他にも小量であるが、北陸で焼かれた珠洲焼と在地系陶器のカメや壷等が出土している。

これらの窯品の流通経路については、藤原氏の奥羽所当官物の京庫一括納入責任者として、大量の物資を輸送しており、これだけでも水陸両道の掌握が前提となるもので、流通問題に積極的に関わっていたと一説にあります。


この出土品の一部は、「柳の御所資料館」に展示されており、12世紀遺物約400点を集めております。当時の平安時代の貴重遺稿や遺物を展示しています。

平泉のように、古代から中世に移り変わる過渡期の現況が総合的に残存している例は極めて稀でありただ単に平泉文化の解明ばかりでなく、この国の歴史を理解する上でも欠くことのできない遺跡であることが確認されています。

     第二部へ続く

(史料:日本の歴史・岩手県の歴史散歩・吾妻鏡・平泉文化研究・柳之御所資料館)





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