伝承柳之御所跡(2)―当時の生活風景を見る 


伝承柳之御所跡
カワラケ(素焼きの土器)
平泉は、この文化遺産をユネスコの世界遺産へ登録に向けて運動をしております。

登録に向けて課題も残されています。

これまで国内で登録された世界遺産は、現存している建造物等でしたが、「平泉の文化遺産」は史跡が地中にある埋蔵文化財(地下遺構)も含まれる特殊性により復元整備をする必要があります

今後の予定としては、

無量光院跡・柳之御所の復元整備をし、地域における文化財を保護・保存する環境を整え、平成19年度世界遺産登録を目指します。
当振興局と一関市・花泉町・平泉町では、平成14年7月に世界遺産登録一関地方推進協議会(会長:一関市長)を設置し、一関地方が一体となって世界遺産登録に向けた取り組みを推進していきます。

※参考 平泉文化遺産(平泉町世界遺産推進室)


第一部に続く出土品と専門家の所見を見てみましょう

≪木製折敷・日常生活残片≫について

木製品には折敷残片が多い。
これは、宴会でかわらけと一緒にお膳として使われた折敷もまた使い捨てであったことを物語っております。

他に漆器腕、皿、杓子、曲物、箸、下駄、櫛、裁衣尺、糸巻、将棋駒、毬など日常の道具と呪符(墨書)や各種形代、宝塔、笹塔婆(南無阿弥陀仏と釘書)などの呪術や信仰関係のものがあります。
さらに折敷を使って寝殿を墨書したり、人名、衣服名を墨書した資料、寝殿造の絵画資料等がある。また建築部材としては柱、破風板、屋根板等があります。

≪絵画資料等について≫

この寝殿造の絵画資料について、平泉文化研究の所見を見てみます。

これまでの発掘調査によって、毛越寺・無量光院といった平泉の寺院が京の法隆寺・平等院を模して建てられたことが確認されており、それと同様に住宅でもいえることを誰しもが想像していたが、この板絵資料によって、京の貴族住宅である寝殿造を模倣した住まいを構えていたことを、確認することができた。

しかしながら、寝殿造を導入するに当って、建築自体が貴族社会の身分秩序と強い結びつきを持つ造り方、例えば身分に応じて出入り口や座る場所が違っていたように、それ相応の工夫があったと思われるが、板絵からはそこまではわからない。今後の遺跡の発掘でそうした点が明らかになるかもしれない、と述べています

≪墨書折敷について≫

都市平泉の住人について知る手懸りとなる貴重な史料として「墨書折敷」(人々給絹日記)が発見されたが、これについて入間氏は、次のような所見を述べています。

そこには、秀衡の息子国衡、泰衡、隆衡をさすと思われる信寿太郎殿、小次郎殿、四郎□郎殿の三人の名、そして石川三郎殿、石川太郎殿、橘藤□、橘□、瀬川次郎、海道四郎殿、石崎次郎殿、大夫小大夫殿、大夫四郎殿の、計12人の名前が記されていた。

後の八人は秀衡側近の家来であったか。うち瀬川、石崎、石川の四名は、奥六郡内に地名が見えることから、この地の在地領主で、奥州藤原氏のいわば根本被官、橘の両名は、京下りの下級貴族で秀衡側近の実務官僚だった豊前介実俊、実昌兄弟のこと、また大夫を名乗る二人は多賀国府から迎えられた客分的な存在でなかったかと考えられている。

多種多様な構成を持つ側近の家来達が、平泉の屋敷・邸宅に居住していた住人であり、「在庁官人」であったと述べます。

≪瓦の出土について≫

平泉の瓦は出土量は少ないものの、京都との関係を知る好資料となっています。

瓦当文様には鐙(あぶみ)、宇瓦(のきがわら)とともに三種あり、多くは巴文を基調に珠文や剣頭文で構成されている。これらは京都栗栖野で焼かれた六勝寺(ろくしょうじ)系瓦と同じで、工人が将来されて造瓦していることは確かである。また白河との関係も伺わせる。ほかに唐草文宇瓦があるが、文様・技法とも鎌倉と同じであるとの事。

≪金属残片について≫

金属製品には、金槌、ノミ、鉄斧、刀子(とうす)、釘、鍔、鉄鍬、紡錘車、内耳鍋、鉄貨、金、鐘がある。溶解した金が付着した石が出土したのは、園池に接した素堀りの井戸状遺構で、重量16Gある。鏡は羽を広げた二羽の鶴を中心に、松と草花の間を三羽の蝶が舞う構図で、松鶴鏡という。

遺跡の遺構と遺物を見ると、主殿と南庭を配し塀で区画する地区の遺物が意外に日常生活具的であるという特徴がある。また、烏帽子も最近出土されている。年齢や階級に応じてかぶるものとされているが、この頃は、高位の人しかかぶらなかったとされています。これこそ当時の上層階級の生活形態であったかもしれない。

平泉舘が政庁と判断されたが、若しそうだとするならば、そこには陸奥・出羽両国行政の為の台帳である「省帳田文」(吾妻鏡)が備えられていた。しかし、現在の段階ではその結論は出ていないとのことである。


平泉は現存する「中尊寺」「毛越寺」等の他、謎が多く残されています。

加羅御所や倉町、衣河や祇園、三日町の商業地など遺跡の数々が点在しているとはいえ、調査が進んでいないのが現状です。

栄華を誇った平泉の実像が今以上に明らかにされるように、大切なる遺跡保存と今後専門家によるの更なる調査を期待してやみません。



(史料:日本の歴史・岩手県の歴史散歩・吾妻鏡・平泉文化研究・柳之御所資料館)





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