中尊寺 歴史の鐘


中尊寺の鐘は、中尊寺本坊から金色堂に向かう途中にあります。
かつて、恒例NHKの除夜の鐘で過去何回か全国に紹介されました。

しかし、鐘全体に痛みがひどく、昭和五十年二月、新鐘楼を建立して以来、それに代わって今はただ、古ぼけた鐘は、数百年にわたって鳴らし続けた時を黙然と制止させています。


この鐘、単に歴史が深く、音色がよかったというだけではありません。
鐘に刻まれた銘自体、中尊寺の歴史を解明する上で貴重な史料となっています。

鐘には次のような銘文が刻まれています。
「仰ぎ考へるに、平泉中尊寺創の歳序は、長治二年春、藤原清衡恭けなくも堀河鳥羽の勅詔を賜はるところの霊場なり。爰に建武四年回禄し、阿シュクワイジンと成る。頼栄、推鐘利生の志を励まし、爰(ここ)に銘す。」

この銘文によって、中尊寺は長治二年(1105年)春から、清衡によって建立が開始された事。そして堀河、鳥羽二代にわたって国家の安泰を祈る勅願寺となったが、建武四年(1337年)に回禄(火災によって焼失)し、一山ことごとく鳥有に帰したことなどを知ることが出来ます。


清衡が、天治三年(1126年)三月、中尊寺落慶法要の際に奉納したといわれる「供養請願」によると、中尊寺には創建当初から、二階鐘楼一宇があった。

そして、その鐘楼は「一音の覃(たん)ぶところ千界に限らず、苦を枝き楽を与ふ、晋ぬくみな平等なり。官軍夷虜の死せしこと古来幾多・・・・鐘声の地を動かすごとに、冤霊をして浄刹に導かしめん」ための、いわば、中尊寺建立の眼目というべき重要な位置を占めていた。

しかし、この鐘楼も建武四年の火災で焼失。その代わりとして、新たに再建されたのがこの鐘、と推定されています。

以来、中尊寺では、数百年にわたって、朝、昼、晩と、時の鐘を鳴らし続けてきました。
昭和五十四年、県文化財に指定されています。



(史料:日本の歴史・岩手県の歴史散歩・吾妻鏡・平泉雑記・供養請願・平泉今昔)






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