都市平泉の謎―「平泉古絵図


初代清衡は、平安京と同じ条件を備えた平泉の地を選び、京都に似せた計画的な都市を建設した。そして、この地は奥州の中心にあって首都にふさわしい位置をしめていた。というのが、今日までの通説になっています。

初代清衡が中尊寺、二代基衡が毛越寺、三代秀衡が無量光院、そして、高館、柳之御所、伽羅御所を建立したといわれる平泉の全盛当時はどのような都市構図であったのか?
私のみならず多くの方の興味をそそる側面でもあります。

その全盛当時の様子を伝えるとされる「平泉全盛古絵図」として、広く一般に知られています。
図版がないので、平泉文化遺産のHPの「平泉全盛古絵図」を参照下さい。

※参考 平泉文化遺産 http://www.iwate21.net/hiraizumi/top.html

これは、中尊寺利生院蔵にあるもので、絵図は縦約58.5CM。横約80CMで西側を上にして、当時の平泉市街地の様子を伝えています。

これによると、図の中心部に「秀衡屋敷」があり、それを囲むように、「泰衡屋敷」「伽羅御所」「義経公高館御所」「ベンケイヤシキ」などの屋敷群、その西側地帯にに中尊寺、毛越寺などの寺院、その東側(下部)に、現在の北上川の流路あたりに、家臣団の屋敷が整然と配置されています。
そして、現在の束稲山の下に桜川が描かれています。

これが事実なら、実に壮大な都市の景観です。
この図の配置関係が、藤原氏が京都風の街を建設した証拠とされてきました。

この絵図の作成年代は、寺伝では、室町時代後期の葛西氏全盛時代に、奥州藤原氏を想像して描いたものを、永世年間(1504年―21年)に複写したと伝えています。作者名等は不明です。

しかし、これについて、江戸時代中期の平泉研究家相原友直は「平泉雑記」の中で
「今俗間ニ平泉ノ図アリ、秀衡ノ時ヲ写セル図ナリト云、予是ヲ写シ取テ熟覧スルニ秀衡ノ時ヨ図スルニアラズ、後世里人ノ語リ伝へヨ以って好事ノモノ作レル者也」
と、いち早くこの古絵図に疑問を呈しています。

また、平泉文化研究の所見でも、やはり同じように、表記、記述の仕方が近世城下町の発想で描かれたものとし、資料的価値が低いことを述べています。

それでは想定される「都市平泉」のイメージとはどのようなものだったのでしょうか?

清衡が「平泉」を選んだ最大の理由は、京都と景観の類似や、地理的中心地としてではなく、平泉が衣川に隣接する「境界の地」であったことが各史料の共通点となっています。

かつての「俘囚主」安倍・清原氏の支配領域であった「奥六郡」の最南端が、平泉との間を流れる衣川であり、それが日本国と蝦夷との国境線でした。安倍一族はこの衣河に本拠を置き、衣川柵(衣川関)を中心に屋敷が集まっていた所で、平安時代の末期には、その衣河地区が陸路・海路の商業地として相当な活況を呈していた(吾妻鏡)場所でした。

藤原氏は、それをそのまま継承して、この境界線の「衣川」より南の中尊寺―衣関の故地にあり、それを廃止の上に―を中心「平泉」に都市プランの建設を進めていったと考えられています。
その境界ラインを超えて南に拡大する事が、政治的な意味をも持っていたのです。

そして、藤原氏の時期には、国内・外的な交易の拡大によって、巨大な国際都市、港湾都市に発展していった。

現在の平泉における発掘調査は、柳之御所中心に行われており、市街地の解明は残念ながらあまり進んでいないのが現状のようです。

それでも、平泉中心部の都市計画の町割りが発見されています。

おそらく基衡時代に計画されたと思われる、現在の毛越寺通り旧道と観自在王院を基軸に東西南北に直交する街路、そして三代秀衡時代に施工されたと思われる、無量光院を基軸としたやや軸線の異なる街路の二つの町割りが存在することです。

先ず、平泉中心部のイメージですが、これについては、平泉文化研究の説を中心に迫りたいと思います。

平泉文化研究では、「吾妻鏡」の「寺塔巳下注文」を推敲し、次のように推論する。

奥州藤原氏の壮大な政庁である平泉舘があり、次いで、藤原氏一門の屋敷群が政庁を中心に立ち並んでいる。西には倉庫の密集する地区があり、「高屋」で統一されたメインストリートも整備されていた。(現在の観自在王院跡付近をいう)ここは平泉の玄関、東京で言えば銀座通りに相当する地区である。さらに中尊寺、毛越寺、無量光院等の寺院がところ狭しと威容を誇っている。これが全盛時代の平泉中枢部の姿である。(※高屋地区は、現在の毛越寺及び観自在王院より南に当る地区を指します。)

そして、平泉は農村と区別され、独立の行政区「平泉保」として扱われた。・・・「平泉政庁」の位置は、この中尊寺の中心伽藍の一つ、極楽往生を遂げた藤原一族を安置する「聖なる空間」金色堂を起点に計画される。そして、政庁を中心に一門の邸宅がつくられてゆく。中尊寺―金色堂―平泉舘とつながるプランの存在がはっきりと読み取れるとしています。

(※ちなみに、中世都市が独立行政区(「平泉保」)として扱われた例は、京都と鎌倉、諸国の国府などに限られており、その意味で、平泉は一地方都市にとどまらなかったことが伺える)

しかし、「中世都市」として京都と比較するなら、一定の「共通性」があることも述べています。

その共通性とは、メインストリートの「高屋」街、独立行政区に編制されていた事、都市の境界を守る鎮守がつくられ、境界祭祀が行われていたであろうと推定されること、京都の法勝寺(ほっしょうじ)・平等院を手本にしたという毛越寺・無量光院、また発掘調査によってわかった都市風の生活様式等、倫理的側面から見るなら、京都を模倣したといえる。

言い換えれば、平泉の都市核心部のイメージとは、

倫理的側面から京都を模倣しつつも、平泉独自の地形的立地条件と歴史的経緯に合わせて、平泉舘、伽羅御所、無量光院周辺の地域と、毛越寺、観自在王院と倉町と呼ばれる周辺地域、そして、関山中尊寺の三つの地域を結んだ三角形型の地域が都市中心部で南北に延びた位置に再現されます。

そして、中尊寺は、金色堂によって特別な意味をもった奥の院的な寺院として、毛越寺は鎮護国家の都市平泉の象徴的寺院として、無量光院は秀衡を筆頭とする藤原氏の氏寺としてそれぞれの性格、役割が与えられていたと推論します。


そして、もう一つの関心事は、商業地域繁華街及び民衆の生活圏のエリアに注がれます。

先に述べた、安倍氏時代から受け継いだ都市地域である中尊寺から北方の真下に眺められ地域である北上川と衣川の両川が合流する付近の壮大なスケールの商業地域が浮上します。
それは、宿駅と河港とが複合した繁華な町場として想定されています。

近世の地元の伝承「安永風土記」の「往古の駅場」(=宿・古宿・六日市場・七日市場)という記述から、及び「吾妻鏡」の「産業海路を兼ねた」という記述から、水陸交通の結節点を辿っていくと、中尊寺から北方、真下に眺められる位置、そしてかつて瀬原村と呼ばれていた地域(衣河付近)を推定される。

現在この付近は、「長者原廃寺跡」や「関明神」などの遺跡や寺社があるが、ここが宿・古宿の地名が残ることから「瀬原村河原宿」と推定する。

地元の伝承も、かつての奥大道は、南は毛越寺から西光寺に通ずる街道、そして観自在王院東側道路を北方に向かい中尊寺の建っている丘陵を下り衣川を渡って、下衣川村の地を通過していた一本道と伝えている。

そして、その衣川村と東の地続きでる北上川・衣川の両側が合流する付近、かつての長部村の古町場(=本町・十日町、七日町)に、宿駅と河港が複合した壮大なスケールの商業都市が想定されるのです。

といっても、現在の北上川流路は、高館跡真下に流れているので少々わかりにくいと思いますが、かつての北上川流路は、現在の束稲山麓の低地な地域を流路として流れていたとしています。

特に、平泉・一関地区は勾配が一万分の一を下回る程極端に緩く、一関狐禅寺の狭窄部を抜けて宮城県に入り、津山町柳津で分流しながら石巻湾に注いでいる。

そして、北上川上方の流路の影響で、平泉付近で複雑に変貌を繰り返していたとし、現在の流路を含め三本の流れの痕跡があったと推定しています。

地形的な面から見れば、高館を中心としたこの地区は、軍事的、安全性、水運の面からも、他地域に勝る一級地区であった。

また、平泉には「祇園」という地名がある。現在の平泉駅の南方1KM付近で、太田川を挟んで南側とその周辺に、十二世紀の遺跡が平面的に広域的に分布することが判明しつつある。
果たしてこの地域周辺は、民衆の生活圏エリアだったのかどうか・・・・・・・・




(史料:日本の歴史・岩手県の歴史散歩・吾妻鏡・平泉雑記・平泉今昔・平泉文化研究)






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