金売り吉次伝説


義経の下向説とともに語られる金売り吉次は、吉次信高(京三条の人)という名前で登場しています。

しかし、謎の満ちた「金売り吉次」でもあるのです。

義経記 (室町初期)によると、
「三条に大福長者あり。その名を吉次信高とぞ申しける。毎年奥州に下る金商人なり」

地元の言い伝えも残っています。

吉次は栗原郡金成村(宮城県)の炭焼き藤太の長男で、幼少の頃から商才があり、秀衡に目をかけられた。母が京都生まれのため、そのつてを求めて京に市場を開拓。奥州金の砂金を売って大いに財を成し、この衣川の地に屋敷を構えたと言われています。

その吉次の屋敷跡と言い伝える遺跡が、胆沢郡衣川村下衣川にあります。通称「長者が原」と呼ばれています。

しかし、昭和24年から25年にかけての発掘調査の結果、礎石の配列、建物の位置、南門の存在などから、遺跡は屋敷跡というより、むしろ寺院の堂塔跡であることがわかったのです。
翌26年に、この遺跡は「長者原廃寺跡」として国の史跡に仮指定され、33年、県の史跡に指定されています。

現場は、北上川の衣川との合流点に近く、物資の便利な位置を占め、近くには「六日市」「七日市」「八日市」などの古地名が残っています。

平家物語(1220年頃成立)では、
「鞍馬のちごして。後には金商人(こがねあきんど)の所従(しょじゅう)となり・・・奥の方へ落ちし小冠者(こかんじゃ)」

源平盛衰記(鎌倉末期成立)では、
京都に安堵し難かりせば、金商人が従者して・・・陸奥へ下りし者」

平治物語(鎌倉末期成立)では、
奥州の金商人吉次といふ者、京上りのついでに必ず鞍馬へ参りける」

このように時代が下がるに従って人物の輪郭が鮮明になってくることがわかります。

「平家物語」は義経が死んで(文治五年・1189年)、わずか50年の間に成立したものなので、義経を郎従とするような金商人が存在したのは事実であろうと思う。

この金売り吉次を、昔の金商人の象徴的な固有名詞として考えるなら、奈良時代から平安時代にかけて多くの金売り吉次がいて国内を移動していたのである。藤原氏全盛時代も、平泉は奥州両国の政治・文化の中心であると同時に、経済の中心地でもあったので、各地から物資が集され、当然、商人の出入りも激しかったと考えられます。

そして実際に、奥州各地のみならず、信州、下総、武蔵にも残っています。また、吉次の父とされることの多い炭焼き藤太の伝説となると、津軽から豊後(ぶんご)まで、日本中に流布されているといいます。

その金の需要とする背景を少し探ってみましょう。

奈良時代の事です。

聖武天皇の天平二十年(749年)、陸奥守百済敬福(むつのかみくだらきょうふく)は、陸奥国産の黄金900両(約38kg)を献上し、盧舎那(るしゃな)大仏(東大寺の大仏)を造建中で仏身のメッキに用いる金が不足し聖武天皇を驚喜させた。

これを祝して、当時の越中国府の国守であった万葉歌人―大伴家持(おおともやかもち)は歌を詠んでいる。

「すめろぎの 御代榮えむとあづまなる みちのく山にくがね咲く」

この産金地は宮城県遠田郡涌谷町黄金迫の黄金山神社の地とされています。少し以前まで、黄金沢の流れで砂金の採集が行われていたという。その周辺は、朝鮮の産地(敬福の故郷)と山の様子がよく似ているとか・・・。

しかし、当時の産金地はみちのくだけではありません。
下総(しもつけ)・駿河(するが)あたりでも金は採取されていました。ただ、全国的に産出量が少なく、大部分を朝鮮半島より輸入したのが実情のようです。


しかし、この産金以降、陸奥国は金の産出国として重要な地位を占めることになるのです。

次いでに、当時の金産地を参考までに述べて見ましょう。

三好京三説によるとその産金地を下記のように述べています。

岩手陸前高田の玉山金山、先に述べた黄金迫、宮城県本吉郡金成、同津谷、岩手県気仙郡世田米、室根、猿沢、黄金沢、今出山、堂場、姫神、丸森等‥
岩手県南部の北上山地を中心にあったといいます。安倍貞任の頃には(姫神)、藤原時代産金地(鷲の巣)といった言い伝えがあります。


当時の仏教思想では、仏の世界は黄金ででした。

全てが、きん然と金色に輝く世界が最高の理想郷・阿弥陀浄土であると説きます。その仏の世界を、地上極楽として表そうとしたのが東大寺といわれます。


(史料:日本の歴史・岩手県の歴史散歩・吾妻鏡・平家物語・源平盛衰記・平治物語・義経記)






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