「清悦」伝説


文治五年(1189年)、源平合戦の英雄義経は、「吾妻鏡」には、衣河舘で泰衡によって襲われ三十一歳の生涯を閉じた。しかし、義経の運命を共にした従臣が当時何人いたのかははっきりしない。

後世の「義経記」によれば、高館には当日、義経の妻北の方と五歳になる若君の他、従臣の鈴木三郎重家、亀井六郎重清、片岡八郎弘経、鷲尾三郎経治、伊勢三郎義盛、備前平四郎定清、増尾十郎兼房、武蔵坊弁慶などわずか十人足らずしかいなかった。

他残り十一人は、近くの寺に参拝に出かけたまま帰らず、「高館の変」を聞くやそのままどこかに逐電してしまったという。

ところが、この衣川合戦から四百数十年後の江戸時代始め、衣川合戦の生き残りと称する「清悦」と名乗る人物が東北各地に出没した。そして、この合戦の様子を詳しく語って聞かせたという伝説が残っています。

面白い伝説なので、「平泉今昔」より一部抜粋してお話しましょう。

この清悦という人物は、剣術の達人であった。伊達正宗の七男で柴田郡村田(宮城県)の城主であった伊達宗孝の家臣である小野太佐衛門は、六年間、清悦について剣術を学び、清悦の話を克明に書きとめた。これが世にいう「清悦物語」である。

それによると、清悦は義経従臣の一人で、義経に従って奥州まで落ちてきた。ある日、北上川に釣りに出かけ、一人の仙人に会います。その仙人より「にんかん」という赤い肉を食わされた。その結果、不老不死の身となり、衣川合戦にも生き残った。

そして、江戸時代初めまで四百数十年も長生きし、衣川合戦を見てきたように詳しく語ったといいます。

その清悦の墓と称する塚が、東磐井郡川崎村門崎の北上川のほとりに残っている。
寛永七年(1630年)に没したという。

清悦によると、泰衡が義経に背いたのは弁慶がしばしば平泉の武士たちを侮辱したのが原因という。そして、義経が頼朝にうとまれたのは梶原景時のざん言の為で、頼朝は義経の死後、このことを痛く後悔した。梶原父子を処刑したという話である。

東北各地にこの伝説が流布されたことは、事実であろう。
現に、その判官びいきがエスカレートして、義経の北方行伝説となり、ひいてはジンギスカン説まで発展した。

たとえ作り話であったとしても、悲運に陥れた者への復讐がすまされない。清悦という生き証人を立てて、景時を処刑せずにおかなかった。

東北民衆の義経に対する熱烈な哀惜の情と平泉への限りない追憶の所産が「清悦物語」を生んだ



(史料:義経記・吾妻鏡・平泉今昔より一部抜粋)






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