高館の謎


源平合戦の、時のヒーローとなった源義経の終焉の地となった平泉、地元では半官舘と呼ばれる高館の跡がある。

舘跡は、高台にあって「伝承柳之御所跡」(平泉舘跡)を東南方向に置き、猫間ガ淵を挟んで無量光院を南側、そして北は北上川と衣川の合流点に開けた水田地帯、東は切り立った断崖、対岸は束稲山を見る平泉随一の景勝の地である。

丁度同じ場所に、芭蕉の句碑が置かれている。
JR平泉駅からは、北北西約1KMの所に位置し、無量光院跡わきを通って中尊寺方面に抜ける旧国道四号線沿いにあります。

義経は、文治五年(1189年)四月、ここで自害した。

舘跡の頂上に古びたお堂が一宇ある。義経堂である。義経の首は、鎌倉に届けられたが、遺体はこの舘跡に埋められた。やがて塚の上に小さな祠(ほこら)が建てられた。しかし、長い年月のうちに朽ち果て、天和三年(1683年)、伊達四代藩主綱村が祠跡に堂宇を建立し、これが義経堂であるといわれる。
が、現在の堂は、文化五年(1808年)に再建されたもので、堂内に、宝暦年間(1751年―1764年)の作といわれる甲胃姿の義経堂が安置されている。

源頼朝に追われた義経は、藤原秀衡を頼り平泉に落ち延びた。しかし、秀衡はその半年後に、病魔に侵され没する。その後を継いだ四代泰衡は、頼朝の脅迫に負け、義経主従を滅ぼしてしまう。

その時の様子を「吾妻鏡」では、「去る閏四月晦日、前民部少輔基成宿舘において、義経を誅す」とあり、義経最期の地は「基成」の宿舘であったと伝えています。

藤原基成とは、平治の乱で敗死した藤原の信頼の異母兄弟で、陸奥守と努めた後そのまま陸奥に土着して、娘は秀衡の正室となり、泰衡、忠衡兄弟を生んだ。秀衡にとっては義父で泰衡にとっては外祖父にあたる人である。義経は、その基衡の舘で討たれたというのである。

伝承されている言い伝えは、「高館終焉説」であるが「吾妻鏡」の記述とは相反している。

それでは、悲劇の武将の居舘とは何処をいうのか?

残念ながら、各史料をひっくり返しても「謎」の部分なのです。

そこで、高館と柳之御所の関連記事を平泉文化研究の説を用いて説明します。

舞曲「やしま」の一節
「秀衡悦ふで、ちやくし西きど二男やす平を先として、三千よきのせいにて御むかいにまいり、ひらいずみへ入申。衣川たかだちと申所にしんぞうに御所を立、やなぎの御所と申て、あいた、さかた、つがる、がつふ、そとの浦ひわうばんをかまえ、いつきかしづき申」

同様の記述は八坂本「平家物語」にも見えるとし、これら文学が中央人の発想で書かれたことは否定し難い。と述べ、続いて、秀衡が義経のために設けた邸宅を「柳之御所」といい、俗に「高館」と呼び、「衣川舘」の別称だった。

更に、「毛越寺堂塔書上」には「高館」の項に続き「一、柳之御所弁慶屋敷、高館より北に有、当時は河に罷成」とあり、位置的に高館(伝義経の居舘)より北にあるとし現在の場所とは異なってた。

「柳之御所」は、藤原清衡・基衡二代の居舘だったという説は、近世中期の平泉旧蹟志や安永風土記などに現れ、明治以降に主流となって、現地点に落ち着いたとしています。

その「柳之御所」という名称は、前記の舞曲「やしま」や舞曲「高館」や「義経記」等からみても、中央文学の中で生まれた可能性が高いと推定します。

言い換えると、
  @現在の伝承柳之御所⇒政庁平泉舘
  A高館=衣河舘(基成舘)
  B高館は柳之御所と同一舘と推定される
  C柳之御所は高館の北方向にある(現在の柳之御所跡は高館の東南に位置)

上記のようになるが、どの辺り? なのかは、やはり謎である。



 「夏草や 兵どもが 夢の跡」

訪れた芭蕉は、その当時の義経と藤原氏の様々な人間模様、栄華、滅亡の歴史をこの一句に凝縮させた。


八五十年の歳月を超え、何事もなかったように、北上川がゆったりと南に流れている。





(史料:日本の歴史・岩手県の歴史散歩・吾妻鏡・平泉文化研究)






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