「観自在王院跡」を散策 |
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観自在王院跡 復元図 |
観自在王院跡 舞鶴ケ池 |
毛越寺の道路一つ隔てた東隣に、広々とした庭園がある。 基衡の妻が建立したといわれる観自在王院の跡地である。現在、国の特別史跡に指定されている。 この庭園は、南北に伸びる長方形で四方は道路によって仕切られている。 池の北側(復元図上部)には杉木立があり、その中に古びたお堂が二つ佇んでいる。 ![]() そして、この復元図の左側(西側)―毛越寺側―には、幅30Mに及ぶ玉石敷の空間である「車宿」とおぼしき建物が建っていた。(牛舎の駐車場跡) この付近(南北路)界隈の南側一帯が「倉町」が立ち並んでいた。そしてこの界隈は、当時の都市平泉の入口として表向きの繁華街(メインストリート)だったという。(現在の平泉小・中学校付近と思われる)(入間田宣夫氏)。 この街路を南方へ進むと、平泉から鎌倉に通じる道路がある。途中達谷窟、西光寺のある街道だ。この幹線道路が「奥大道」の一部であったという。(平泉文化研究) 吾妻鏡によると、観自在王院は阿弥陀堂のことで、堂内の四壁には洛陽(京都)の名所地を図柄し、仏壇は銀、高欄は磨金で出来ていた。この大阿弥陀堂のほかに小阿弥陀堂があり、これも基衡の妻が建立した。障子の色紙形は、毛越寺金堂(円隆寺)と同じく、参議藤原教長卿が染筆したという。 ![]() 南門を通って、北方へ進むと大きな池がある。今に残る「舞鶴ケ池」である。 東西南北約90Mと言われ、何処から見ても絵になる風情がある。池の中央の南側には中島があり橋が架けてある。 この舞鶴ケ池も「作庭記」の作法通りに作られていることが、過去二回の発掘調査によって確認されている。規模は小さいが、毛越寺と同じく、当時第一級の浄土庭園だったことが明らかになった。 池の北側に、大阿弥陀堂と小阿弥陀堂が並んでいる。二つの堂は、それぞれ池の南方向を面している。池の東側には鐘楼跡、普賢堂がある。 水面に浮かぶ風景が、静かにゆっくりと当時のロマンを語りかけている。 (史料:日本の歴史・岩手県の歴史散歩・吾妻鏡・平泉雑記・平泉今昔・平泉文化研究) |