金色堂


金色堂

平泉と言えば中尊寺。中尊寺といえば金色堂。平泉のシンボルとも言うべき金色堂は、中尊寺の奥の深い杉木立の中にあります。

建物全体に金箔を施し、文字通り金色さん然、まばゆく輝き、この小堂宇こそ「皆金色」「金銀和光」と謳われた平泉文化の精華であるのです。

※関連リンク 平泉町商工会  平泉町



実は、この金色堂の建立時期について、長いことはっきりしなかったらしい。
しかし、明治三十年の解体修理の際に偶然発見された天井桟敷の墨書名から、天治元年(1124年)八月二十日、初代清衡によって建立されたものであることがわかったのです。

天治元年と言えば、清衡六九歳で亡くなる四年前のことである。以来八百年以上、金色堂は建武四年の火災にも焼け残り、その金色さん然の姿を今日まで保ってきた。
度々の災害にもかかわらす、金色堂のみ現存することは、奇跡的ともいえるかもしれません。

しかしながら、さすがに堂内いたるところ朽損がひどく、昭和三十七年から四十三年にかけて、大掛かりな解体修理工事が行われた。覆堂の新築費用まで含めた工事費約一億六千九百万円。その七割を国が負担し、残りを県、中尊寺が負担した。

堂の内外張替えに使った金箔11KG、内陣の柱、須弥壇などの螺細細工に使った夜行貝約580個。これは日本近海に産しないため、わざわざ沖縄から南洋産を取り寄せたという。

その金色堂は、三間四面(間口、奥行きとも約5,5M)。単層(一階)。屋根の形が方錐形をした宝形造り。材質はヒバ材。槍カンナ仕上げ、屋根は、瓦を模した板で葺いた木瓦葺き。その屋根を除いて、建物は床と言わず、天井と言わず黒漆で塗り固め、その上に金箔が押してある。そのまぶしさに、北上川の魚も目がくらんで近寄らない・・・・という伝説があるほどと言われる

堂の中央、四本の柱に囲まれた内側が内陣。内陣に須弥壇を構え、その中央壇に初代清衡の遺体が安置されている。中央壇後方左側が二代基衡、右側が三代秀衡壇。秀衡壇には四代泰衡の首級が一緒に安置されている。各壇上には、阿弥陀如来、観音、勢至菩薩、六地蔵尊、持国、増長二天像計十一体。三壇合わせて三十三体(基衡壇の一体が欠け、実際には三十二体)の仏像が安置されています。

これほどまでに贅を尽くした金色堂を、清衡は一体何の為に建立したのでしょうか。

清衡が、天治三年(大治元年、1126年)三月に中尊寺落慶法要の際奉納したといわれる「供養請願」に、建立した堂塔名を列挙しその各々に建立の趣旨説明が付してあります。ところが、不思議なことに金色堂については全く記載がないのです。

そして、現在、この金色堂を覆っている覆い堂は、昭和四十五年五月に完成した。鉄筋コンクリート造りで、正面、奥行きとも約15、7M。面積約二四六、五平方M。これに約五八平方Mの資料展示室が付設してある。

総工費約二千五百万円。設計は、盛岡市出身で平泉町名誉町民の藤島亥次郎博士。鉄筋コンクリート造りといえ、屋根の流れ、軒の反りなども優美な平安様式にまとめています。

金色堂はガラスケースの中に収められ、空気は自動的に調節されるようになっています。これらの措置により、金色堂は新覆堂とともに、半永久的に保存可能となったといいます。

俳聖、松尾芭蕉が門人曾良とともに訪れた際に「五月雨の 降りのこしてや 光堂」と感嘆句がありますが、その時の「おくの細道」本文中に次ぎのように記しています。

光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。七宝散り失せて、球の屏風に破れ、金の柱霜雪に朽ちて、すでに頽廃空虚の叢となるべきを、四面新に囲みて、いくらかを覆ひて風雨を凌ぎ、しばらく千歳の記念とはなれり。

芭蕉が訪れた頃の覆堂はもちろん「旧覆堂」です。

この覆い堂について、一説によると、
金色堂が建てられてから165年後の正応元年(1288年)、征夷大将軍惟康親王の命で、時の鎌倉幕府北条貞時が建立したといいます。


以来七百年近く金色堂をみちのくの厳しい風雪から守ってきたのです。



(史料:日本の歴史・岩手県の歴史散歩・吾妻鏡・平泉雑記・供養請願)






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