日本人は単一民族?複合民族?


日本人は、世界でも最も歴史好きの国民だといわれています。

たぶん、それは多くの謎に満ちているからだと思う。
歴史上の出来事、現象など、いつ、どこで、だれが、なにをどうしたかについて、殆んど満足な解答が得られる事が稀なのです。

断片的ではあるものの、私もその謎の多い歴史をを読みながら、記事を書いてみました。
読めば読むほど解らない?・・・実感ですねー。

それでも、この不思議な謎に満ちた歴史の断片的であれ、総体的であれ、誰にも迷惑をかけずに空想するのも楽しみ方の一つかもしれません。

日本人は、凡そ似た顔をして、地域差によって方言はあるものの、同じコトバを使っています。

そこで、その民族のルーツをさぐって見る事にしました。

日本人は単一民族と思われがちで、現に殆んどの方がそのように思っている。

それでは、典型的な日本人の顔の定義とは?

ある人は、やや四角形の顔で眉が濃く、目は大きく二重まぶたである
ある人は、面長で、頬骨が張り出して、眉毛が薄い。そして目は細く一重まぶたであるという。

前者は、南方系モンゴロイドであり、後者は、北方系モンゴロイドである。おそらく縄文人は南方系モンゴロイドで、その子孫は、後に渡ってきた北方系モンゴロイドの弥生人と混血したに違いない。群馬県の岩宿遺跡によって旧石器時代人の存在が証明されている。

即ち、現代日本人は各地から渡来した人種によって構成された民族である。

それでは、「縄文人」とは、どんな文化を築いたのか?

縄文人のイメージは、大半の方が「不安定な狩猟採集の半定住生活にあけくれ、腰藁や毛皮を着て、その日暮し」と、こういうものでしょうか?

平成六年に一般公開された「三内丸山遺跡」は、軟弱な地盤に直径1Mもある栗の柱を6本も使用し、微妙に支えあう角度をつけて建てられた大型の堀立柱建物である。元の高さは16Mもあると推定され、高度な土木技術とその技術を運用できる社会組織があったといわれる。

ニュースで報道され記憶に新しいと思いますが、最盛期は前3千年頃の縄文中期とされています。そこは、推定五百人前後の集落規模で「農業のない縄文時代に都市などない」と考えてきた多くの研究者を戸惑わせたとの事である。

住居跡は総数で六百棟、少しづつ時期を変え立替し続けられていた。
また、南北で約70、東西で約60Mに及ぶ盛土遺構にトレンチを入れると、最高で4Mの厚さに土や土器、焼き土が堆積し、継続的にはほぼ1千年間で形成された空前の規模のものだということが判明した。

遺物は、土器、石器、木製品など四万点を数え、加えて巨大な建物跡、墓群なども検出された。

また、一般的に、縄文遺跡は大方東日本に偏って分布しているといいます。当時、それ程「住みやすかった」のでしょうか?

それについて、山内清男氏は、東日本の方が木の実がたくさん採れ、鹿やイノシシも東に多く、また、サケ、マスが豊富に採れた。縄文人はこれを重要な食料資源として利用していたはずであるから、人口も多かったとする「サケ・マス論」を説いている。現状では、東日本主導で発達したと考えられている

「弥生人」についてはどんな説があるのでしょうか?

いつの頃かははっきりしないが、渡来系弥生人によって、稲作を中心とした文化を生み出します。この稲作文化は、北九州でまず起こり、その後6−700年の時を経て日本列島に浸透していきます。

そして、この稲作文化は、部族単位の集落をつくり、共同体をつくり、社会的な支配関係が成立していきます。そして古代王権へと繋がっていきます。

そういう過程を経て、つまり、縄文人及び弥生人の混合によって現代の「日本民族」に至っていると考えられています。



(主婦と生活社「不思議日本史」)より






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