「蝦夷」の語源って?


現代において、「蝦夷」とは、「エゾ」と一般に読んでいる。

古代の蝦夷とは、「エミシ、エミス、エビス」などと呼ばれ、中央政府が古代の東北地方の住人を呼んだ呼称であって、現在の蝦夷「エゾ」とは別物と考えられている。

この古代の蝦夷がどのようなものかについて、古くから種族的にアイヌなのか否かという問題を中心に、その文化・言語・社会などの諸点から論じられてきたところであるが、現在でも確たる定説はないとしている今泉隆雄氏の「蝦夷」のルーツを抜粋して紹介しましょう。

明治―大正年間の日本人種論のなかでは、蝦夷=アイヌ説が唱えられた。

石器時代、人は日本人以前の先住民で、そのに日本人の祖先が進出してきて、石器時代人を征服・駆逐した。この先住民の遺ったものが、古代の蝦夷、アイヌであるという。
『日本書紀』などの文献史料では、蝦夷が未開野蛮な狩猟民として描かれているや、金田一京助らの指摘による東北地方におけるアイヌ語地名の存在も、蝦夷=アイヌ説の根拠となった。

人類学においては、
石器時代人は日本人の祖先と考えられるようになり、石器時代人=アイヌ説が否定されることによってその根拠を失った。

考古学の方面では、
昭和三十年代から四十年代では、東北北部においても弥生時代に稲作が行われ、古墳時代に土師器(はじき)・石製模造品が出土することなどから、東北北部の古代文化は、中央の文化と同質のものであることを強調する。(伊東信雄氏)

昭和四十年代から五十年代では、蝦夷=日本人あるいは近民説が一時定説的な位置を占めたが、新しい研究が進められ、東北北部における北海道文化の要素が指摘されるようになった。
というのは、縄文文化後半の後北式土器といわれる土器が、青森、岩手、秋田北域、宮城県北域に、北大式土器が青森、宮城県北域に、北海道土器が出土してきたからである。

文化面では、
東北北部は、日本的な要素と北海道的な要素の二面性をもっていた。
弥生時代には、西日本から始まる稲作を受け入れ、古墳時代には土師器、石製模造品が出土することから明らかになったように古墳文化の一部も受容し、日本的な文化が移入されていた。
北海道には稲作が伝わらす、続縄文時代が展開した。東北北部では、土器文化の上では、縄文・弥生時代以来北海道と共通する面が強く、古墳時代にも続縄文土器が伝えられた。また言語の面でも、アイヌ語地名が濃厚に分布するように北海道的要素があった。(工藤雅樹氏)

以上のようなことから、現在の「蝦夷研究」は考古学、地名研究の進展によって一新しつつあるものの、それぞれの結論は異なっており、定説といえるものはないという

学術的な面からの「蝦夷」の語源、少々わかりにくかったでしょうか?

ちなみに、現在の北海道という名称が誕生したのは、1869年、明治二年八月十五日、名付親は開拓御用掛の松浦四郎といわれる。これ以前は、前記の通りの先住民(蝦夷)居住地であった。




(史料:日本の歴史・岩手県の歴史散歩・不思議日本史)





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