毛越寺(1)―由来 |
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平泉駅正面の道路が毛越寺通りである。毛越寺は、駅から約600Mで、信号を二つ横切って進むと、右手の町並みが切れて、史跡公園となっている「観自在王院跡」の広い庭園が見えます。 ここから右手の方向にこんもりとした小高い山が見えますが、ここが「金鶏山」、そして左方向に見えるなだらかな高い松林の山が「塔山」です。 左上図が、毛越寺本堂です。毛越寺は、嘉禄二年(1226年)及び天正元年(1573年)に、ことごとく灰になり、現在ある寺院は、すべて後世再建されたものです。遺跡はすべて地下に眠っています。 毛越寺とは、正式には天台宗医王山毛越寺といいます。 ※関連リンク 毛越寺 全盛当時は、金堂円隆寺、喜祥寺を始め「堂塔四十余宇、禅坊五百余宇」の大伽藍を誇っていた。 しかし、その殆んどは、二度にわたる火災で焼失してしまいます。 現在は本坊を中心に、千手院常本坊、正善院善正坊、覚性院梅下坊、白王院覚城坊、金剛院鳥屋崎坊、大乗院柳本坊、慈光院蓮繞坊、光円院光坊、妙禅院池上坊、福昌院宝全坊、蓮乗院蓮成坊、普賢院山繞坊、寿命院千繞坊、感神院寂静坊、寿徳院円蔵坊、宝積院千光坊、薬王院千光坊、宝積院桜岡坊の計十八の寺院があります。毛越寺とは、これら一山十八寺院の総称です。 しかし、これらはいずれも後世の再興で、毛越寺には、現在、創建当時の建物は一つもありません。 しかし、大泉ケ池を中心とする浄土庭園はほぼ完全な状態で保存され、平安時代の貴重な遺構として、現在、国の特別史跡、特別名称に指定されています。 毛越寺の由来について、寺伝による「白鹿伝説」があります。 寺伝によると、仁明天皇の嘉祥三年(850年)、慈覚大師が東北巡業のおり、この地にさしかかると、一面霧に覆われ、一歩も前に進めなくなりました。 ふと、足元を見ると、地面に点々と白鹿の毛が落ちておりました。大師は不思議に思いその毛をたどると、前方に白鹿がうずくまっております。大師が近づくと、白鹿は姿をかき消し、やがてどこからともなく、一人の白髪の老人が現れ、この地に堂宇を建立して霊場にせよと告げました。 大師は、この老人こそ薬師如来の化身と感じ、一宇の堂を建立し、嘉祥寺と号しました。 これが毛越寺の起こりとされます。 現在でも、近辺「毛越」(けごし)という地名が残っています。 しかしながら、中尊寺の場合と同様、慈覚大師開基説を裏付ける史料は何もありません。 その後、藤原二代基衡が、鳥羽天皇の勅願で、長治二年(1105年)伽藍を建立し、その後三代秀衡が継承し、嘉祥寺などの堂坊舎を造営し完成したというのが通説です。 この金堂の他に、講堂、常行堂、二階惣門、鐘楼、経楼などがありました。 本尊は、打仏師「雲慶」作と伝えられます。 寺伝によると、本尊が制作されるに至った経緯について、次のようなエピソードを伝えています。 この本尊が制作されるに至った経緯について、「吾妻鏡」は、 「毛越寺の事、堂塔四十余宇、禅坊五百余宇なり、基衡之を建立す、先ず金堂を円隆寺と号す、金銀を鏤(ちりば)め、紫檀(したん)・赤木等を継ぎ、万宝を尽くし、衆色を交わう、本仏は薬師丈六、同十二神将を安んず(注、雲慶之を作る、仏菩薩の像に、玉を以って眼を入れる事、此時が始めての例(ためし)なり)、講堂、常行堂(じょうぎょうどう)、二階惣門、鐘楼、経蔵(きょうぞう)等これ在り、九条関白家、御自筆を染めて額を下さる、参議教長(のりなが)卿、堂中の色紙型を書するなり」 毛越寺金堂の本尊は注文生産であったといいます。注文先は仏師雲慶です。 しかし、この雲慶について所伝は不明です。 基衡は上中下の三等級のうち中品を注文します。そして、出来上がるまでの三年間、制作費をとめどもなく送り届けたといいます。 その謝礼として、金百両、鷲羽百尻、アザラシの皮六十余枚、安達絹千疋、希婦細布(けふのせばぬの)2千端、糠部の駿馬五十疋、白布三千端、信夫毛地摺千端などを贈ったり、また別禄と称し、生美絹(すずしのきぬ)を船三艘分も贈ったという。 雲慶が練絹ならなおうれしかったのにと口走るやそれも適えてやります。 すさまじい贈物攻勢です。話半分でも大変な財力です。 従って、仏像の出来栄えは中品どころか、特上品であったのではないかと推測されます。 やがてその評判が、鳥羽法皇の耳にも達します。法皇は「更に比類なし、よって洛外に出すべからず」と命じて、持ち出しを禁じてしまいます。 それを知った基衡はうろたえ、「持仏堂に閉じ篭り、七ケ日夜、水漿を断ちて祈請」し、一方で、関白藤原忠道にすがり、仏像の奥州下りの禁を解いてもらう事に成功し、やっと仏像を平泉に迎えることが出来たといいます。 金に糸目をつけなかった基衡の豪勢さ、中央人士との交渉、駆け引き、したたかさ、京文化への憧れを示して余すところがありません。 「吾妻鏡」によると、基衡はさらに嘉祥寺の建立にとりかかった。が「いまだその功終わらざる以前に入滅」、そして三代秀衡がこれを完成させます。 こうして毛越寺は、基衡、秀衡の二代がかりで、堂塔四十余宇、禅坊五百余宇の壮大な伽藍配置が整えられます。 その造営年代は、岩手大の板橋源教授によると、基衡、参議藤原教長ら関係者の共存関係から、久安六年(1150年)から保元(1156年)までの間と推定しています。 (史料:日本の歴史・岩手県の歴史散歩・吾妻鏡・平泉雑記・平泉今昔) |