国府多賀城跡 壷の碑は語る・・・


多賀城跡(政庁跡)

多賀城跡 南門復元図
多賀城は、奈良・平安の時代『遠の朝廷』と呼ばれた東北の中心地でした。

周囲4KMに及ぶといわれる跡地の一角である「南門」に立っています。
美しい自然に囲まれて、小高い丘が当時の「物見台」の役割をしてたように見受けられます。
この同じ場所に、大伴家持・坂野上田村麻呂・藤原実方・源頼朝・芭蕉・正岡子規が立っていた・・・

そして、そこには日本三古碑の一つといわれる「壷の碑」「芭蕉句碑」があるというので早速現地を訪ねます。アクセスは、JR国府多賀城駅下車し北側に向かい徒歩で500M位のところに位置しています。

南門跡のすぐ近くに古い覆い堂のなかにひっそりと「碑」が立てられています。
この石碑(厚さ20CM位、高さ約2M、幅約1M弱)は、暫らくの間土中に横たわっていたようです。そして近年になって、まるで眠りから覚めたように、現代の私たちに語りかけているように感じられます。

この碑文には、平城京や各国境からの距離と、多賀城の創建、修造にかんする記事などが刻まれています。一時、歌枕「壷の碑」との関連性がないことから論争が巻き起こりますが、近年多賀城研究所跡地調査によって奈良時代に建立された真碑であることが確認され、平成10年に国の重要文化財に指定されています。

この碑に刻まれた「銘文」の概略をみてみましょう。全文141文字で刻まれています。

多賀城の位置

京(奈良の平城京)より一千五百里、蝦夷国(東北地方北半地域)境より一百二十里、常陸国(現在の茨城県)境より四百十二里、下野国(現在の栃木県)境より二百七十四里、靺鞨国(まっかつこく)(現在の中国大陸沿海州)境より三千里 
 ※奈良時代の一里は約535Mです。

多賀城の創建

神亀元年(724年)に大野東人によって多賀城が始めてつくられた
この東人は、奈良時代のはじめに設けられた地方政治を取り締まる上級役人で出羽をも管轄したといいます

多賀城の修造

天平宝字6年(762)に藤原恵美朝カリ(フジワラノエミアサカリ)が多賀城を大改修した
このアサカリという人は、当時の大納言・中納言に次ぐ重職で、臨時に設けられた地方軍政官であったといいます。

碑の建立年月日

天平宝字6年(762年)12月1日にこの碑が建立された。

驚くべき点は、当時の海外交渉の一端が垣間見られる、靺鞨国(まっかつこく)からの距離も記録されている部分です。

丁度その頃、渤海国(ぼっかい)が出羽国に来航していた時期で、天平宝字の頃は「続日本記」にも朝カリが陸奥桃生城と出羽雄勝城とを熱心に構築した時期で、彼の父宰相恵美押勝(さいそうえみおしかつ)でした。その押勝は新羅(しらぎ)との対抗上渤海と通常の外交のみならず軍事的結合を強く求めていた時期であったそうです。

多賀城の管轄下にある出羽秋田城は、渤海使と折衝する中央政権最先端の城柵官衙だったそうです。そういう背景もあって、多賀城に出先機関を置く奈良朝の中央政権にとって、明確に認識し標記しておくべき重要不可欠な事だったと一説にあります。

また、記録されている「蝦夷国」は、中央政権から「胆沢の賊」と呼ばれる人々の天地であった








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