前九年・後三年の役(2)



前九年の役によって、阿部氏の勢力は奥州の天地から一掃されます。その効により、頼義は伊予守に、義家は出羽守に任ぜられた。

また、頼義に援けた清原武則は、在地豪族としては異例の鎮守府将軍に抜擢された。鎮守府将軍は胆沢城に置かれた陸奥鎮守府の最高司令官である。代々、中央から派遣される習わしになっており、在地豪族がこれに任命されるということは、全く異例のことであった。

と同時に、武則は、安部氏に代わって奥六郡の支配者になった。出羽山北から奥六郡に移った清原氏が本拠地を何処に置いたかはっきりしないが、おそらく、安部氏の居舘である衣川柵を引き継いだものと思われます。

一方、清衡は、母の安部氏女が武則の子武貞に再嫁したため、危うい命が助かった。そして、清衡は、安部氏女の連れ子として、皮肉にも父の仇の手で養われることになります。
武貞には、すでに先妻との間に嫡男真衡がおり、新たに清衡の母との間に家衡が生まれた。

清衡は異父兄弟の次男という存在になります。
敗者の子としての負い目に加え、複雑な兄弟関係の中で多感な青少年期を過ごします。
この複雑な兄弟関係がやがて起こる「後三年の役」の要因の一つであるのかもしれない。

「前九年合戦」は「陸奥話記」によって追うことができますが、「後三年合戦」は後世の「後三年合戦絵詞」「奥州後三年記」「康富記」を繋ぎ合わせた史料となり、断片的な情報によって合戦の終始を知ることができます。
それらによると、前段は真衡対清衡・家衡、後段は家衡対清衡と義家となります。

前九年の役より二十年経った十一世紀末、清原氏一族の宗主権は武則から武貞を経て、真衡の代に移っていた。真衡には、後継ぎがなく、養子を迎えていた。その婚礼の場から始まります。

永保三年(1083年)、饗宴のため祝いの品をもって多くの一族が集まっていた中に、前九年合戦で活躍した吉彦秀武(きみこひでたけ)がいた。うずたかく砂金をもった朱塗りの三方を捧げ、舘の前庭にひざまづいていた。秀武は真衡の義理の叔父にあたり、本来ならば清原氏の元勲的存在である。ところが真衡は囲碁に夢中になり秀武の存在を無視したのである。

無礼に怒った秀武は祝いの品を放り投げ郎党を率いて出羽に引き上げていった。逆に真衡はこの態度に立腹し、出羽に兵を出し秀武を討とうとします。後三年合戦の始まりです。

丁度その頃、新しく陸奥守(むつのかみ)として源義家が赴任します。真衡は合戦どころではなく、早速多賀の国府に赴き迎賓の品々を贈ります。

実は真衡の養子「海道小太郎成衡」の嫁は、義家の父頼義奥羽遠征の途次、常陸国多気権守宗基(ひたちのくにたけごんのかみむねもと)の女と契り、この間に生まれた女で、義家の異母妹にあたっていたからだ。

真衡は義家の後押しで秀武(義理の叔父)を攻めます。清衡(後の初代清衡)と家衡はそれに呼応して反乱。ところが、真衡は遠征の途中で急死し、戦闘が休止した。清衡、家衡は、義家軍との直接対決することを恐れ、義家に降伏を願い出ます。義家はこれを許し、真衡が支配した奥六郡のうち、胆沢、江刺、和賀三郡を清衡に、稗貫、紫波、岩手三郡を家衡に分け与えた。これによって一応乱は静まったかに見えた

ところが、家衡は清衡のみを遇する義家に不満であった。あるとき清衡舘(現在の岩手江刺市、豊田舘と言い伝えられている)に同宿したのを機に清衡の宿所を焼き払い妻子一族を殺害し、出羽の本拠沼柵(秋田県雄物川町)に引篭もります。命からがら助かった清衡は義家に救いを求めます。

義家は、清衡を援けて本格的に介入。一方家衡は、一族の武衡の勧めで金沢柵(秋田県横手市)で守りを固めます。寛治元年(1087年)十一月、金沢柵にたてこもる家衡を苦戦の末滅した。家衡を討った義家は、京朝廷に「奥州平定の状」を奏し、恩賞にあずかろうとした。ところが、京朝廷は、「私戦」とみなし恩賞どころか陸奥守の解任してしまします。

これで「後三年合戦」は終結し、結果として清衡だけが安倍と清原の嫡宗権をもったただ一人の人物として奥六郡に残されたのです。

岩手県江刺市岩谷堂餅田に「豊田舘跡」がある。

仙台藩の「封内風土記」や豊田城跡碑によると、清衡の父経清が築いてここに住み、経清の死後清衡が後三年の役の戦功として与えられて住んだところとされている。

果たしてここが本当の豊田舘跡であったかどうかは定かではない(岩手県高等学校教育研究会社会部会日本史部会編より)




(史料:日本の歴史・岩手県の歴史散歩・岩手県高等学校教育研究会)






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